恋する天然酵母
8 定食屋『春日』
「フミちゃん」
弘樹が車から声を掛けてきた。フミは今考えていたことが、ばれたかのようにドキッとして振り向き慌てて「こんにちは」と頭を下げた。
「さっき会ったけどね。乗りなよ」
フミは少し躊躇ったがもう遠慮するほどよそよそしくするのも変だと思い頷いて車に乗せてもらった。
「ご飯でもいかない?」
「え。おうちで食べないんですか?」
「うん。今日俺んち誰もいなくてコンビニでも行くかなって思ってたこと。姉貴もデートらしいしね」
「えっ。美里さん恋人いらっしゃるんですか?」
そんな影を微塵も見せない美里に恋人がいると思うとびっくりもするが、あれだけ素敵な人にいないはずもないだろうと思う矛盾したものがフミを困惑させた。
「うん。もう十年付き合ってるけどね。店にもあったと思うけど藤原浩一郎って陶芸家」
「ああ」
そういえば一度だけ店に作品を搬入に来た時に見かけたことがある。男にしては小柄だが、浅黒い精悍な顔つきはグリズリーを感じさせた。しかし黒目がちな優しい目で、作品を手に取る美里を優しく見つめていたと思う。あの眼差しは美里本人に向けられていたものだったのだろう。
「浩一郎さんも最近やっと生活が安定してきたらしいから、そろそろ結婚するかもね」
「十年……長いですね」
「だね。あれだけ待てるって姉貴もすごいよ」
フミは美里さんらしいと感心して納得していた。浩一郎の作品は焼き締めでガラス質の釉薬がかかっていない土器のような質の炻器と言われるものだ。素朴で模様も絵もなく柔らかい造形とざらついているが温かい手触りを感じさせる作品だった。
「藤原さんのコップ一個買いましたよ。すごい使い勝手いいです」
「うん。地味だから目を引かないけどね。使うといいよね」
『アダージョ』には素敵なものがたくさんありリラックスできる。そして弘樹の車も加工された匂いも派手な色彩のものもなく同じように落ち着く空間だと改めて思った。
「何食べたい?」
そうだ。これから食事に行こうと誘ってもらっているのだと、フミは回想から思考に感覚を戻した。
「えーっと。ラーメン」
「ラーメン?そりゃ俺も好きだけど、いいの?もっといいとこでもいいよ」
優しく笑いながら言う弘樹にフミは少し照れながら「寒くなってきたし、なんかラーメン食べたい気分なんです」 と言った。
「ん。じゃあどこがいかな『春日』にするかな」
「どこにあるんですか?」
「ちょっと大通りから裏道はいるんだ。定食屋だけど醤油ラーメンがうまいんだよ」
「へー」
「ちょっとオヤジだらけだけど平気?」
「平気です」
「じゃ、いくか」
「はい」
低めの軒先の暖簾をくぐり店内に入る。弘樹について一緒に座敷の席に座った。初めて入る店内は壁に張り子の天狗の面やらおかめやひょっとこが飾られており、青年誌系の漫画が多くラインナップされ、客層もスーツや作業服を着た中高年の男だらけだった。
確かにフミ一人では入りづらい店だ。まだ時間帯が早いのか空いている。愛想のよい中年のふくよかな女が水を差しだして「いらっしゃい」と言いフミを見てにっこり笑ってから下がった。
「ラーメンにする?」
「はい。大盛りで」
「俺は麺唐定にするかな」
頼んでから十分ほどで先にラーメンがやってきた。フミは「お先です」と言って手を合わせ麺を啜り始めた。
「おいしい」
「だろ? 隠れた名店ってやつなんだ、ここ」
「繁盛してますよね」
「うん。でもラーメンが美味いって意外と知られてないんだよ」
「へー、こんなに美味しいのに」
もう三分ほどで弘樹の注文したラーメンと唐揚げセットの定食がくる。
「ああ。麺と唐揚げの定食なんですね。なんか呪文みたいだったから何が来るのかと思いました」
ふっと弘樹が優しく笑うので一瞬フミは緊張してしまった。ハッとしてラーメンに集中して食べた。縮れた面と濃い醤油と鶏がらスープがあっさりともこってりともせずいい塩梅だ。
「あー。美味しかった」
「唐揚げ食べる?」
「あ、いえ。もうお腹いっぱいです」
「そっか。ここ唐揚げも美味しいんだ」
「見るからに美味しそうですよね」
あっという間に食事が終わってしまい、フミは弘樹にお礼を言い、二人で店を出た。
このまま帰るのも中途半端で名残惜しい気がしてフミは思い切って弘樹を誘った。
「あの。まだ時間よかったらお茶でもご馳走させてもらえませんか?」
「気にしなくていいよ」
「いえ、あの。気を使ってるとかでもなくて……もう少し一緒に居たいんです」
言いながらフミは自分が弘樹を好きになっている気持に気が付いた。弘樹もなんとなく雰囲気を察し「いいよ」と答えた。今度はフミのたまに行く喫茶店『パトス』に向かった。
弘樹が車から声を掛けてきた。フミは今考えていたことが、ばれたかのようにドキッとして振り向き慌てて「こんにちは」と頭を下げた。
「さっき会ったけどね。乗りなよ」
フミは少し躊躇ったがもう遠慮するほどよそよそしくするのも変だと思い頷いて車に乗せてもらった。
「ご飯でもいかない?」
「え。おうちで食べないんですか?」
「うん。今日俺んち誰もいなくてコンビニでも行くかなって思ってたこと。姉貴もデートらしいしね」
「えっ。美里さん恋人いらっしゃるんですか?」
そんな影を微塵も見せない美里に恋人がいると思うとびっくりもするが、あれだけ素敵な人にいないはずもないだろうと思う矛盾したものがフミを困惑させた。
「うん。もう十年付き合ってるけどね。店にもあったと思うけど藤原浩一郎って陶芸家」
「ああ」
そういえば一度だけ店に作品を搬入に来た時に見かけたことがある。男にしては小柄だが、浅黒い精悍な顔つきはグリズリーを感じさせた。しかし黒目がちな優しい目で、作品を手に取る美里を優しく見つめていたと思う。あの眼差しは美里本人に向けられていたものだったのだろう。
「浩一郎さんも最近やっと生活が安定してきたらしいから、そろそろ結婚するかもね」
「十年……長いですね」
「だね。あれだけ待てるって姉貴もすごいよ」
フミは美里さんらしいと感心して納得していた。浩一郎の作品は焼き締めでガラス質の釉薬がかかっていない土器のような質の炻器と言われるものだ。素朴で模様も絵もなく柔らかい造形とざらついているが温かい手触りを感じさせる作品だった。
「藤原さんのコップ一個買いましたよ。すごい使い勝手いいです」
「うん。地味だから目を引かないけどね。使うといいよね」
『アダージョ』には素敵なものがたくさんありリラックスできる。そして弘樹の車も加工された匂いも派手な色彩のものもなく同じように落ち着く空間だと改めて思った。
「何食べたい?」
そうだ。これから食事に行こうと誘ってもらっているのだと、フミは回想から思考に感覚を戻した。
「えーっと。ラーメン」
「ラーメン?そりゃ俺も好きだけど、いいの?もっといいとこでもいいよ」
優しく笑いながら言う弘樹にフミは少し照れながら「寒くなってきたし、なんかラーメン食べたい気分なんです」 と言った。
「ん。じゃあどこがいかな『春日』にするかな」
「どこにあるんですか?」
「ちょっと大通りから裏道はいるんだ。定食屋だけど醤油ラーメンがうまいんだよ」
「へー」
「ちょっとオヤジだらけだけど平気?」
「平気です」
「じゃ、いくか」
「はい」
低めの軒先の暖簾をくぐり店内に入る。弘樹について一緒に座敷の席に座った。初めて入る店内は壁に張り子の天狗の面やらおかめやひょっとこが飾られており、青年誌系の漫画が多くラインナップされ、客層もスーツや作業服を着た中高年の男だらけだった。
確かにフミ一人では入りづらい店だ。まだ時間帯が早いのか空いている。愛想のよい中年のふくよかな女が水を差しだして「いらっしゃい」と言いフミを見てにっこり笑ってから下がった。
「ラーメンにする?」
「はい。大盛りで」
「俺は麺唐定にするかな」
頼んでから十分ほどで先にラーメンがやってきた。フミは「お先です」と言って手を合わせ麺を啜り始めた。
「おいしい」
「だろ? 隠れた名店ってやつなんだ、ここ」
「繁盛してますよね」
「うん。でもラーメンが美味いって意外と知られてないんだよ」
「へー、こんなに美味しいのに」
もう三分ほどで弘樹の注文したラーメンと唐揚げセットの定食がくる。
「ああ。麺と唐揚げの定食なんですね。なんか呪文みたいだったから何が来るのかと思いました」
ふっと弘樹が優しく笑うので一瞬フミは緊張してしまった。ハッとしてラーメンに集中して食べた。縮れた面と濃い醤油と鶏がらスープがあっさりともこってりともせずいい塩梅だ。
「あー。美味しかった」
「唐揚げ食べる?」
「あ、いえ。もうお腹いっぱいです」
「そっか。ここ唐揚げも美味しいんだ」
「見るからに美味しそうですよね」
あっという間に食事が終わってしまい、フミは弘樹にお礼を言い、二人で店を出た。
このまま帰るのも中途半端で名残惜しい気がしてフミは思い切って弘樹を誘った。
「あの。まだ時間よかったらお茶でもご馳走させてもらえませんか?」
「気にしなくていいよ」
「いえ、あの。気を使ってるとかでもなくて……もう少し一緒に居たいんです」
言いながらフミは自分が弘樹を好きになっている気持に気が付いた。弘樹もなんとなく雰囲気を察し「いいよ」と答えた。今度はフミのたまに行く喫茶店『パトス』に向かった。