絢なすひとと
動く気になれなくて椅子に座りこんでいると、目の前のテーブルに投げ出したバッグから、かすかな振動音が響いてきた。
マナーモードにしたスマホだ。

慌ててバッグから探り出すと、はたして七尾さんからの着信が画面に表示されている。
もどかしく通話アイコンをタップする。
「もしもし」

〈ごめん〉
が彼の第一声だった。

謝罪なんてしないで、と反射的に思う。
「いえそんな…」どう返事をすればいいか分からなかった。
電話の向こうから、ヴーンとうなるようなかすかなノイズが聞こえる。車の走行音のようだ。どこか路肩に車を停めて電話をかけてくれたみたいだ。

〈地位利用するつもりはない〉

地位利用? と思いもよらない言葉に戸惑い、彼は社長なのだとあらためて気づく。

〈さっきは気持ちを抑えられなかった。イヤならそう言ってほしい〉

「イヤだなんて、そんなことはないです」
はっきりした声が出て、自分でもちょっとびっくりした。
「…社員として、ふさわしいことかは分かりません。ただ、わたしは七尾さんに惹かれています」

認めてしまった。自分にも彼にも。
< 39 / 71 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop