よあけまえのキミへ
一章いずみ屋編

序章


 ――明治某年、春。

「先生、この写真は、京都の風景でしょうか?」

 うららかな陽気につつまれた昼下がり。
 心地のよいまどろみに意識を引きずられていた私は、机ごしに声をかけられて、ゆっくりと顔を上げた。

 目の前には、まるく大きな瞳をらんらんと輝かせる少女がふたり。
 最近何かと私のうしろをついて回る、かわいい弟子たちだ。
 彼女たちは、手にした洋箱からあれこれと写真を取り出して、きゃっきゃと朗らかな声を上げている。

 机の上に差し出された一枚へと目を落とすと、見覚えのある風景写真が目に入った。
 私が数年前に撮ったものだ。

「そうよ。これは京都の料亭でね、かぐら屋っていうお店なの」

「立派な外観ですねぇ! わたしも、いつかこんな、空まで映える風景写真を撮ってみたいなぁ」

「うんうん! そういえば先生は、ご一新の前、京都に住んでいらっしゃったのですよね?」

「ええ。十七まで京にいたわ」


 椅子から立ち上がって、コツコツと靴音を響かせながら窓際まで歩みより――私はまぶしい陽光に目を細めた。

 どこまでも青空の広がる、いい天気だ。
 色とりどりの花が揺れる花壇のまわりにはふわふわと蝶が踊り、自慢の煉瓦塀の向こうにのぞく往来からは、心地よい昼下がりの風が吹き抜ける。


 ――ここ数年。
 目の前の景色がめまぐるしく変わるさまを、私は夢のような心地で眺めていた。
 文明開化の波に乗り、この国に急速に広まった西洋技術は数多くあるけれど。
 その中でも『写真』は、新時代への期待と戸惑いをかかえる国民たちの生活に、自然な流れで浸透していった。

 そうして爆発的な勢いで増えゆく写真師は、今や新しき世を代表する花形の職業だ。
 おかげさまで、私が開業した写真場も盛況。
 こうして幾人かの弟子をかかえるまでになった。


「先生は風景も人物も、これまで数えきれないほどお撮りになったのでしょうけど、中でもいっとう気に入っていらっしゃるのは、どの作品なのでしょう?」

「それは私もぜひ、お聞きしたいわ!」

 弟子たちの熱いまなざしに返事を催促されながら、「そうねぇ……」と一言つぶやいて、私は机の脇に立て掛けておいた鞄を持ち上げる。

 そうして中から、華やかな押絵細工がほどこされた革のケースを取り出した。

「やっぱり、一番を選ぶならこの写真ね」

 中の写真を取り出して机の上へと置けば、二人の少女は、わぁと感嘆の声を上げて顔を寄せる。

 古びた紙焼きの一枚には、懐かしい顔ぶれがずらりと並んで写っている。
 彼女たちは紙の中にたたずむ人物たちを一目見て、その出で立ちに興味を示した。

「お侍さんがいるわ! 刀を差していらっしゃる!」

「大人数ですねぇ……あ! こちらに写ってらっしゃるのはもしかして!」

 端々まで写真を見渡しながら、弟子の一人がはたと動きを止め、一点を指す。

 そこに写っているのは、そう――

「私の旦那様ね」

 はにかむように笑みを浮かべる。
 今でも毎日のように見る顔だけれど、こうして昔の写真を眺めるたびになんだか照れてしまう。
 この人の妻になれたことは、私の誇りだ。

「わぁ、やっぱり! この頃は、お若いですねぇ」

「そうでしょう? 年をとっても素敵だけれど、若い頃もとても格好よかったのよ、うちの人は」

「先生、またのろけが出てらっしゃる……! 本当に仲がよろしいのですねぇ」

「そうね、この頃は特にいろいろ大変で……今でもよく思い出すわ。そのたびに、この写真を撮っていてよかったと感慨にふけるのよ」


 ――写真は、思い出を切り取るものだ。

 その場の空気と、音と、香りと……そして人の思いを紙の上に焼き付ける。
 目に見える部分だけではない。
 古い写真を手にとるたびに真っ先に頭をよぎるのは、彼らの声だ。
 穏やかな、笑い声。


 紙の中で並ぶ面々は、それぞれが笑みを浮かべている。

 もう二度と取り戻せない一瞬。
 私が切り取った、忘れられない思い出のひとかけら。


「この写真は、先生がお撮りになったのですよね?」

「そうよ、私が初めて撮った写真」

「わぁ、初めての作品なのですね! とてもよく撮れています!」

「ふふ、実は一回で成功したわけじゃないんだけれどね……」

 とはいえ、初めてにしては上出来だ。
 思い入れの大きさからくる贔屓目を差し引いても、画として美しい仕上がりになっている。

 写真を手にとり興味深げに目を細める弟子たちは、満足げに息を吐いて顔を上げた。


「この方達は、先生のお知り合いなのですか? ご主人も写ってらっしゃいますし……」

「ええ、そうよ。私にとって大切な人たちなの」

「わぁ、いったいどんな方々なのかしら、ぜひ詳しくお聞かせください!」

「私、ご主人とのなれそめが一番気になります!」

 写真に目を落としながら、あれもこれもとせがむ弟子たちの姿を見て、思わず苦笑する。

 なんとも可愛らしい。
 やはり年頃の娘さんたちの胸に火をつけるには、恋の話題が一番効果的なようだ。


「話すと、とっても長くなると思うんだけど――」

「かまいません! 今日はお店もお休みですから、時間はたっぷりあります!」

「そうです! 何時間でも歓迎です!」

 と、手際よく机の前に配置されるふたつの椅子。

 まるでお芝居の一等席を陣取ったような前のめりの体勢で、鼻息を荒くする少女たち。

 準備は万端……。
 こうもお膳立てされてしまっては、袖にするわけにもいかない。


 ――さて、何から話そうか。

 この写真を撮るまでの経緯か。
 主人とのなれそめか。

 どちらにしろ、はじまりの日は同じだ。

 まずはそこから、語りはじめるとしましょうか。

 すぅ、と小さく息を吸い込んで。
 遠い日の空に思いを馳せながら、私は口をひらいた。


「この人たちとの出会いは、写真との出会いでもあったのよ――」



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