よあけまえのキミへ
「傷の具合はどうだ?」
朝餉を食べ終えて一息ついた雨京さんが切り出した一言に、私は安堵した。
「もうすっかり元気です! 思ったより深い傷じゃなかったみたいで。ね、ゆきちゃん?」
本当は傷口がふさがりきるまでもう少し時間がかかるそうだけど、雨京さんの前ではできる限り元気だと主張しておく。
「せやね、そろそろかるーく散歩とかして体動かしてもええんやない?」
ゆきちゃん、いいこと言ってくれる……!
「そ、そうです雨京さん! あんまり寝てばっかりだと、かえって体が重くなる気がするので、そろそろ外に出てみようかと……」
傷が順調に治ってきているのは本当だ。
誰かに会ったり、体を動かしていたりする時には怪我をしていることなんてすっかり忘れてしまうくらいに回復している。
「……そんなことを考えているのではないかと思っていた。言ったはずだ、しばらく外には出さんと」
雨京さんは、私の言葉に呆れたように目をつむる。
「でも私、心配なことだらけで……! いずみ屋周辺の、同じ組の人たちのことも気になるし!」
「火事に巻き込んだ店舗には頭を下げて再建の費用を出した。お前のことを刺した女はあれから行方不明だそうだが、夫の方は残って店を建て直すそうだ」
「え!? 行方知れず……!?」
谷口屋のおかみさん、そんなことになっていたなんて。
「軽症で済んだとはいえ、人を刺したのだ。捕まれば何かしらの裁きを受けることになるだろう。おそらく咄嗟に逃げ出して戻るに戻れないのではないか?」
「でも、谷口屋さんは悪くないんです。もとはといえばこちらが原因を作ったことですし……」
「そうだな、そもそもかすみがしっかりしていれば防ぐことができた事態だ。だからこそ周囲に最低限の償いはする。だが、誠意を見せたあとは過剰に引きずる必要はない」
強い口調で、雨京さんは断言する。
それでもまだ、私は組の人たちにろくに謝ってもいないんだ。
「一度私も、頭を下げに行きたいです……」
「いずみ屋周辺の店舗は、あの事件の痕跡をぬぐいさろうと日々必死に生活をたてなおしている。そんな中お前が出て行っても、不快な思いをさせるだけだ。しばらくは近づくな、そっとしておいてやれ」
「……はい」
炎上するいずみ屋を囲んでいた人々の、冷たく突き刺すような非難のまなざしを、ふと思い出した。
私は隣人から刺されてしまうほど、強く憎まれている。
雨京さんのいう通り、今のこのこ出て行ってもかえって場の空気を悪くするだけかもしれない。
「どうしてもというのであれば、かすみが帰ってからにしなさい」
うなだれていた私は、その一言にはっとして顔を上げる。
「かすみさんと一緒に……ですか!?」
「そうだ。いずみ屋の店主として、かすみには責任がある。この騒動に決着を付けることができる人間は、かすみしかいないのだ」
「そうですね、だったら一日も早くかすみさんを探し出さなきゃいけませんね……!」
雨京さんは私なんかよりずっと、いずみ屋のことを考えてくれていたんだな。
かすみさんのことも、信じてくれている。必ずどこかで生きていると。
「そうだな。かすみの事に関しては人を雇って調べさせているから、心配する必要はない。お前はここで大人しく療養するのだ」
「はい……でもあの、もう少し元気になったら、かぐら屋のまわりを散歩してみてもいいですか……?」
おうかがいをたてるように上目遣いで雨京さんを見ると、真一文字にむすんだ口の端がぴくりと動いた。
「許可できんな。最近は、かぐら屋周辺にも浪士がうろつきはじめて危険だ。昨日は屋敷にまで訪ねて来たそうじゃないか」
「それはその……悪い人じゃなくてですね、私の釣り仲間で……」
うそだけど、半分は本当だ。
「妙な仲間を作るのはやめなさい。ためにならない人間との付き合いは、私の判断で絶たせてもらう」
「そんな……! 私が誰と付き合うかは、私が決めます!!」
大人しく、できるだけ雨京さんの言葉には逆らわないようにしたいとは思っているけれど、これだけは譲れない。
「いくら言っても聞かないのだな、お前は。一言釘をさしておくつもりで来たが、それでも足りないか」
「雨京さんにはすごく感謝しています、でも……」
あまりにも、がんじがらめにされすぎて窮屈だ。
こんなによくしてもらっておいて、そんなことを言える立場じゃないのは分かっているけれど。
「お前も年頃の娘だ、不逞の輩と遊んでいる場合ではないだろう。ほとぼりがさめ次第、お前に合った良い縁談を探してくる。それまで大人しくしていなさい」
「ええっ……!?」
「縁談!!?」
私が絶句すると、今まで隣で黙ってお茶をすすっていたゆきちゃんが、盛大に噴き出した。
「縁談なんて今は考えられません! 私はまだまだ、かすみさんと一緒にお店をやりたいんです……!」
しばらくはかぐら屋を手伝いながら雨京さんの手腕を学んで。
そのあとは一からでもいいから、晴之助さんから受け継いだいずみ屋を再開する――。
あの事件が起こるまで、私たちはそうするつもりだった。
もちろん今のかすみさんの気持ちは分からない。
店をもつなんて、もうこりごりだって思っているかもしれない。
でもそれは、会って気持ちを確かめなきゃ分からないことだ。
今後のことは、かすみさんと話し合って二人で決めたい。
「笑わせるな。お前たちに再び店を任せることなど、できるわけがないだろう。今後は商売から完全に手を引かせる。かすみへの縁談は今でも数多くあるからな、美湖より先に嫁ぎ先は決まるだろう」
「かすみさんの意見は聞かないつもりですか!? そんなに、なんでもかんでも雨京さんが決めてしまって、いいわけないです!!」
身を乗り出して声を荒げる私をにらみ付けて黙らせると、雨京さんは立ち上がって口を開いた。
「かすみへの縁談は一昨年から先延ばしにしていたのだ、こんな事になってしまった以上、もう待ってやるつもりはない」
「そんな……」
知らなかった。
かすみさん、何も話してくれないから。
「……そろそろ行かねば。話の続きはまたの機会にしよう。やえの言うことを聞いて、大人しくしているようにな」
「……」
こちらを振り返ることもせずに障子を開けて出ていく雨京さんの背を、私は黙って見送った。
雨京さんの言っていることは正しい。
いつだって正論だ。
だから、口ごたえする方がわがままなんだって分かってる。
でも私はせめて、かすみさんの口から、これからの話を聞きたい。
かすみさんがどう思っているのか、ちゃんと聞いて話し合いたいよ。