よあけまえのキミへ
しばらく川沿いを歩いて見慣れた柳の下にたどり着くと、私は釣り道具を傍らに置いてそっと石造りの堀のふちに腰を下ろした。
「さぁ、今日は釣るぞー!」
いつもの場所、いつもの餌。いつも通りの手順で釣り糸を垂らす。
――ただ一つ、いつもと違うのは竿だ。
何か一つ変えるだけで、なんとなく今日はいけるんじゃないかと気分が上向きになってくるから不思議だ。
のどかな空気にちゅんちゅんとさえずる鳥の声。
目の前を行き過ぎる舟をぼうっと見送りながら、邪魔にならないよう釣り糸をたぐり寄せる。
「釣れるかのう?」
あくびをしようと気の抜けた顔で口をあけた私の背後で、声が上がる。
振り返ると、そこには見慣れた顔がひとつ。
「あ! 酢屋のおにいさんっ!」
高瀬川沿い、私がいつも釣りをする場所からすぐ向かいに店を構える酢屋に宿を借りているらしいお兄さんだ。
背が高くお洒落な人で、会うたびに変わった仕立ての着物や履き物を身につけている。
クセのある髪の毛がピンピンと寝癖のようにはねているのも特徴だ。
よく酢屋の二階の窓際から顔を出して川を眺めているので、自然と顔見知りになり、こうしてたまに話すようになった。
「昨日は惜しかったのう! 竿ごと流されてしもうて……はっはっはっ」
「わ……! 見てたんですかっ!? 恥ずかしいなぁ」
派手にすっ転んだ昨日の自分を思い出し、赤面する。
「二階からやとよう見えるき、嬢ちゃんが毎日めげずに頑張りゆうがは知っちゅうよ。そろそろ一匹釣りたいとこじゃのう」
「はい。そうは思ってるんですけど、釣れなくて……何がいけないんでしょうか?」
「ふぅむ……」
右手を顎の下に添え、考えこむようなしぐさでお兄さんは屈み込む。
目線は、餌入れの中だ。
「餌が良くないですか? 昨日とったみみずです」
「……ほやのう。よしっ!」
お兄さんはポンと膝を叩いて威勢よく立ち上がり、そのまま履き物を脱ぎ捨てると、静かに川面へと着地する。
――ぱしゃりと涼やかな音を響かせながら、高く水しぶきが上がる。
そしてそのまま袴の裾をまくり上げ、ざぶざぶと躊躇なく水面を蹴りながら、目についた岩を持ち上げては底の砂を掘り返していく。
「――ほい、こいつで釣るがよ。竿を貸してみ」
活きがよく、まだうねうねと身をよじって動いているみみずを数匹餌入れの傍らに置いて、お兄さんは笑顔で右手を差し出した。
「はいっ! どうぞ!」
言われるがまま、私は竿を手渡す。
お兄さんはてきぱきと慣れた手つきで餌を付け替えると、川に足を浸したまま、大きめの岩沿いにそっと糸を垂らす。
……釣れるかな?
こちらに背を向ける形で竿を握っているお兄さんの表情はよく見えないけれど、たまに退屈そうに腰に手をあてて背を伸ばしたり、あくびをしたりしている。
今日は暖かくて眠くなる陽気だからなぁ……と、微笑ましく頬がゆるむ。
あたりにはのどかな鳥のさえずりや、きゃっきゃと走り回る子供たちの甲高い笑い声が響き、私も自然と心地よくまぶたが重くなってくる。
――ばしゃっ
ふいに上がった水音が、ゆるゆるとしたまどろみを散らし、私の意識を覚醒させる。
あわてて顔を上げると、釣り糸の先に食いついた獲物を誇らしげにこちらへと掲げるお兄さんの笑顔が視界に飛び込んできた。
「いっちょあがりぃ!」
それはもう立派な、よく身のしまった川魚が、ぴちぴちと水滴を飛ばしながらお兄さんの手の中でもがいている。
「わっ……わぁっ! すごいですっ!! 釣れたぁっ!!」
今まで一度も釣り上げたことがない私にとっては、待ちに待った瞬間だ。
お兄さんの奮闘を讃えて、ぱちぱちと拍手を送る。
桶に川の水を満たし、釣り上げた魚をその中へ放ると、お兄さんはよっこらせのかけ声とともに堀の上へと上がってくる。
「ちなみに、次に釣るんやったらあっちの岩陰あたりがえいはずじゃ。あとは、このあたりの草の陰と――この石の下には、もしかしたら鰻がおるかもしれん」
さらさらと穏やかに音を立てる川の流れに目を細め、あちこちを指差しながらおすすめの場所を丁寧に教えてくれるお兄さん。
ざっと見回しただけでそんなことまで分かっちゃうんだ。
「すごいです、お兄さん! さては達人ですね……!?」
「ふっふっふ……見ての通りの実力やき。海でも川でもどんとこいなこの達人に何でも聞いとおせ!」
「おおーーっ!」
おみそれしましたー! と、仰々しく芝居のノリに乗っかると、お兄さんは愉快そうに笑ってお腹を抱える。
「いやいや、まぁアレじゃ。釣りも慣れやき、続けよったらよう釣れる場所も時刻も分かってくるはずぜよ」
「なるほど……私なんてまだまだ経験不足のひよっこですね。めげずにこれからも頑張ってみますっ! ようし! 釣るぞーー!!」
目の前で釣果が上がるところを見て、いくらか勇気づけられた。
同じ道具、同じ場所で私だけ釣れないはずはない!
「その意気じゃ! またちょくちょく達人が様子ばぁ見に来るき、頑張りや!」
「はいっ! またいろいろ教えてください、達人!」
そう言って二人で笑い合うと、脱ぎ捨ててあった履き物を履いてお兄さんは立ち上がった。
「さぁて、そろそろ行かにゃ。ほいたら嬢ちゃん、また会おう!」
去り際に私の肩をポンと叩き、お兄さんは人の波を縫うようにして足早に路地へと消えて行った。
――気さくで、明るくて、なんだかお陽さまみたいにぽかぽかした人だなぁ。
普段何をしている人なのかは知らないけれど、こうしてたまに話すと、いつも去り際には『人と会う』と言いながら風のように消えていく。
いくらか交流はあるけれど、実のところは謎だらけだ。
だけど、こうして毎日何かしら言葉をかけてくれるお兄さんとの会話が、楽しみだったりもする。
きっと、また明日にでも会えるだろう。
その時にいい報告ができるように、陽が落ちるまでに自分の力で一匹でも釣り上げられたらいいな――。