よあけまえのキミへ

 そうして頭を悩ませていると、背後でガラガラと戸が開く音が聞こえてきた。
 振り返ってみれば、のれんをかきわけて路地へと出てくる谷口屋さんのご主人と目があった。
 彼はそのまま、こちらに向かって頭を下げる。

「美湖ちゃん、あさひ屋さん、こんばんは。いずみ屋さんは、今日も大変やったみたいやな……」

 寡黙で職人肌のご主人は、ご近所さんとこうして世話話をすることなどほとんどない。
 店の外で顔をあわせたのは、今日がはじめてだ。

「いえ。それよりも、うるさくしてしまって本当にごめんなさい……」

 お隣さんには特に、声が響いて迷惑をかけてしまったはずだ。
 そうじゃなくても谷口屋さんは浪士嫌いだというのに……。

「……いずみ屋さん、客は選んだほうがええと思いますよ」

 ご主人は言いにくそうにもごもごと口を動かしたあと、眉根を寄せてこちらに視線を向ける。
 困り果てている、という表情だった。

「はい。さすがに私も、そうした方がいいんじゃないかと考えていたところで……」

「そうすべきやと思うで、美湖ちゃん。浪士なんぞ店に入れても、なんも得にならへんよ。損するだけや。先代はんは客を選別するんを嫌うお人やったけど、こんな時勢やからねぇ……このままやといずみ屋の評判まで落ちてしまうで」

 あさひ屋のおかみさんが力強くうなずきながら、悩む私の背を押す。
 そうしてくれと、頼みこむような勢いだ。
 ご近所さんにとっては、付近の店に浪士が出入りしているだけでも不安なのだろう。

 続けて、谷口屋のご主人も口をひらいた。

「うちの女房が、えらい浪士嫌いでな……姿を見るんはもちろん、声を聞くのもいやや言うて」

「はい、それは知っています。お昼にも少し話をしましたから」


 おかみさんは普段から、浪士嫌いを公言している。
『寄り付く浪士は追い払え』を口癖に、強気な態度でそれを実践し続けている人だ。
 きつい対応にも見えるけれど、「そのくらいやらなければ店を守れない」と、おかみさんの主張に賛同するご近所さんも少なくない。


 数年前までは、いずみ屋寄りの接客をするお店も多かった。
 お客さんの事情を詳しく探るようなことはせずに、身なりで判断することもなく、来るもの拒まずといった姿勢のお店。

 しかし時代の流れで京に浪士があふれてくると、ツケで飲み食いしたり、酔って暴れまわったりする輩が頻繁に目につくようになり、店側の対応も変わっていった。

 最初は恐る恐る、浪士の来店やツケを断るようになり。
 その結果どこかで騒ぎが起こると、組の寄合をひらいて結託し「徹底排除」を叫んだ。

 きっぱりと「浪士は相手にしない」方針に切り替えた店舗がほとんどだ。
 店をかまえる人間たちは何より揉め事を嫌うから、こうなったのは必然と言える。

 つまり、のれんをくぐった者は誰であろうと無条件にもてなすという姿勢は、もう古いのだ。
 いずみ屋先代である、かすみさんの父晴之助さんの教えを守って、貧しいお客さんこそ大切にもてなして来たいずみ屋は、この界隈では浮いた存在になってしまっている。

 いつまでも変わらずにいることは難しいのかもしれない。
 どこかで新しい流れに乗らなければ、まわりから取り残されてしまう。


「お店に戻って、かすみさんと話をしてみますね。ご近所さんをこれ以上不安にさせないように、私たちも考えをあらためます」

 そうして頭を下げると、目の前の二人はいくらか柔らかい顔つきになって、うなずいてくれた。

「ほんなら美湖ちゃん、かすみちゃんにもよろしゅう言っといてな」

「おやすみ、美湖ちゃん。夜は物騒やから、戸締まり忘れんようにな」

「はい。わざわざありがとうございました!」

 二人は互いに一言ずつ挨拶を交わすと、足早にそれぞれの店内へと戻っていった。

 人気のない小路に、冷たい夜風が吹き抜ける。
 もう長月のはじめ。
 薄着でいると夜は肌寒さを感じてしまう。


 ――さて、私もお店に戻ろう。

 話に夢中で、無意識のうちに持ってまわっていた釣り竿と桶を、ようやく戸口におろす。
 ぎゅっと握りしめていたからか、桶を持っていた左の手のひらには真っ赤なあとがついてしまっている。

 今日は慌ただしい一日だったなぁ……。
 まずは、かすみさんと話をしなきゃ。

 私は、いずみ屋の屋号が入ったのれんをくぐり、店内へと戻っていった。

< 24 / 105 >

この作品をシェア

pagetop