よあけまえのキミへ
「――それで私、しばらくいずみ屋を閉めようと思うの」
「え!? しばらくって……いいの!? どのくらい!?」
「まだよく分からないけど、一月か二月か……もしかしたら一年以上」
思いもよらぬかすみさんの決意に、私は言葉を失い、わなわなと唇を震わせた。
そんな私の不安げな様子を見かねてか、かすみさんはそっとこちらに歩みより、ぎゅっと母のように抱きしめてくれる。
「前から、兄さまに言われてたの……私のやり方じゃ店をつぶすって。店主としてのイロハを教えるから、しばらくかぐら屋で働いてみろって」
「かぐら屋……」
かすみさんの実家は、高級料亭である『かぐら屋』を営んでいる。
かぐら屋はわずか二代でその名を上方に広げ、あちこちに支店を出し、今や京の料亭番付でも必ず名が上がるほどの一流店だ。
豪奢な店がまえと、当代一の料理人と謳われた店主の腕が創りだす華やかな料理の数々は「芸術」と評される。
とにかくすごいお店なのだ。
私も何度か行ってみたことはあるけれど、まるでお城のようなきらきらとした内装に緊張してしまい、料理の味もよく覚えていない。
出されるものすべてが、ものすごくおいしかった! と月並みな感想だけが頭に残っている。
現在、本店のかぐら屋を継いでいるのはかすみさんの兄、神楽木雨京(かぐらぎうきょう)さんだ。
「……なんだか最近は、いろいろと考え込んじゃってモヤモヤしていたから、これがいい機会だと思って兄さまのところで鍛え直してもらうつもりよ」
「かすみさん……」
そう言われてしまっては、私からは何も反論できない。
何より、それでかすみさんがすっきりするなら――今後のいずみ屋がいい方向に向かうなら、間違っていない選択だと思うから。
「だから、美湖ちゃんも一緒にかぐら屋に行こう。兄さまも、美湖ちゃんのことは気にかけてくれてるから」
「そうなの……!? いいのかな、私なんかがついて行っても」
「もちろん。なにより私が、美湖ちゃんと一緒がいいもの」
そう言って微笑んでくれるかすみさんを見て、じわりと涙がにじんでくる。
あまり会う機会のない雨京さんが私の事を気にかけてくれていたことも、意外だった。ありがたかった。
「たしか兄さまは明日の夜まで支店を回っているそうだから、明後日話をしに行こうと思うんだけど、美湖ちゃんも一緒に来てくれる?」
「うんっ! 行く!」
トントン拍子に話が進む。
私はかすみさんの話を静かに耳に入れながら、異論はないと要所要所で相槌をうつ。
きっともう何日も前から、かすみさんはこの選択を頭の中心に据えて悩み抜いてきたんだろう。
ぐらついていた気持ちにやっと決心がついた――そんな様子だった。
「ごめんね、突然で。でも、いずみ屋を守りたいと思って決めたことだから」
「分かってる! 大丈夫だよ! 私も手伝うから、一緒に頑張ろう!」
「二人だと心強いよ、ありがとう美湖ちゃん」
「うんっ!」
――そう、きっと大丈夫。
二人なら、どこへ行ったって。
こもっていた熱気がいくらか冷め、心地よい静寂が広がる店の中心で。
私達は、決意を込めて大きくうなずき合った。