よあけまえのキミへ
高瀬川にかかる大黒橋を渡り少し歩くと、ほどなく西側に見えてくるのが材木屋の酢屋さんだ。
二階建てで裏には立派な納屋もあり、釣りをしながら側面から敷地を眺めると、その奥行きの広さがよく分かる。
「ごめんくださぁい」
しっかりと戸締まりをしてある戸を、少し強めに叩きながら店の中へと声をかける。
ほどなくしてガタガタと目の前の戸が引かれ、中から現れたのはまだ面立ちに幼さを残した少年だった。
「はーい、何でしょう? お客さんじゃなさそうですねぇ……女の人だ」
こんな時分……それも女二人の突然の来訪に少年は驚いているようで、わずかに好奇心を含み、きらきらと澄んだまなざしでこちらを見つめる。
「こんばんは、えっと……二階に住むお兄さんに会いに来ました。取り次いでもらえますか?」
「お兄さんかぁ。どの兄さんかな?」
「えっ……?」
首を傾げる少年の目を見つめたまま、私はきょとんと目を丸くする。
どのお兄さんかと言われても、私が思い浮かべるのは一人だ。
まだ会ったことがないだけで、ここに下宿している人は他にもいるのかな?
「ええと……私が会いに来たのはこう――髪がピンピン跳ねてて、お洒落さんで、それから……」
「ああ! それは多分、ぜよぜよ言う兄さんかな?」
「そうですっ!! ぜよの人!!」
あまりにも分かりにくい私の説明をきちんと理解してくれた少年に心の底から感謝しつつ、大きくコクコクと頭を縦に振る。
隣に立つかすみさんは、始終苦笑いだ。
「そっちの兄さんは今留守ですよ。お姉さん方、どんな用事ですか? 兄さんとデキてる感じかな?」
「ち、ちがいますっ……! あの、昼間釣りをしててお世話になって、それで鰻をおすそわけに……」
可愛い顔して、デキてるとかデキてないとかそんな妙にませくれた事を言ってほしくなかった……!
私は混乱しながら、抱えていた重箱を差しだして簡潔に要件を伝えようと頭をひねる。
「……あ、ちょっと待っててくださいねぇ……兄さん! ぜよの兄さんにお客さんが来てるけど、どうしよう?」
少年は私たち二人に両の手のひらを向けて『待った』のしぐさを見せると、店の中へと振り返り、誰かに話しかけはじめた。
そして、ひそひそと何やら言葉をかわしたのち、少年はぺこりと愛想良く頭を下げて奥へと引っ込んで行った。
代わりにのそりと戸口に姿を現したのは、気だるそうな表情でこちらを見下ろす男の人――。
「……要件は?」
さっぱりと切りそろえられた綺麗な短髪をかきあげるように、耳の上あたりを片手でおさえながら、彼は口をひらいた。
ぜよのお兄さんには及ばないものの、背が高い。
着物の胸元や袖口からは、お兄さん同様珍しい仕立ての見慣れない召し物がちらりとのぞく。
「お昼に、お兄さんから釣りを教えてもらって……それで、あの。よかったらこれ、食べてほしいなっておすそわけにきました」
「……」
どこか面倒くさそうにこちらを見下ろす男の人は、無言のままぴくりとも動かない。
「えっと……すみません、わけわからないですよね……あのぅ……」
眠そうな半目をこちらに向けたまま、慌てる私の様子をぼうっと見つめていた彼は、ふと思い出したように『ああ』と低い声で呟いた。
「そこの川で、よく釣りをしている奴か……」
「そ、そうですっ! 釣りしてます、毎日! 良かった。もしかしてお兄さんからお話聞いてましたか?」
やっと会話らしい会話ができそうだと、ほっと胸をなでおろす。
「いや、何度か見かけたことがあるだけだ」
さして興味もなさそうな淡々とした声色で、のっそりと気だるそうに喋る。
来訪者への対応が心底面倒くさいのか、はたまた単に眠たいだけなのか――独特の間をもつこの人の語り口に乗せられるように、私も自然に沈黙が多くなってくる。
「……お留守だそうですので、こちら、ことづけておきたいのですが、よろしいでしょうか?」
一向に話の進まない私たちの会話に助け船を出すように、かすみさんは持っていた菓子の包みを軽く持ち上げながら、微笑んだ。
「構いません」
こくりと静かにうなずき、男の人はかすみさんの手から包みを受けとる。
「あ、これもどうぞ! 鰻重です。そっちがお菓子で……よかったらみなさんで召し上がってくださいね!」
私があわてて押し付けるように重箱を差し出すと、彼は『分かった』とつぶやきながら抱え込むように片手でそれを受け止める。
「……念のため、そちらの名を」
男の人はふさがった両手を不便そうに見下ろしながら、かすみさんの方にちらりと視線を向けた。
そういえばさっきから、かすみさんに対しては言葉づかいが丁寧だな……何か彼なりの区別があるのかな。
「いずみ屋の、神楽木(かぐらぎ)かすみです」
ぺこりと、気品を漂わせながら丁寧に頭を下げるかすみさんの隣で、私も割り込むように声をあげる。
「私、天野美湖です! お兄さんによろしくお伝えくださいっ!」
『お前には聞いていない』といった風な、気だるく聞き流すような視線に若干胸を痛めながらも、私は念を押すように大きくお辞儀する。
酢屋のお兄さんに、ちゃんと私の名前も伝えておいてほしいと思ったからだ。
「……確かに預かりました」
小さくうなずくように頭を下げると、男の人は静かに戸を引いて店内へと引っ込み、そのままガタガタと戸締まりをはじめてしまう。
用件は済んだのだからこれで充分なんだとは思うけれど、あまりにバッサリとした対応にちょっぴり面食らってしまう。
……やっぱりこんな時分に約束もなく訪ねるのは迷惑だったかな?
「無事に渡せたし、帰ろうか」
「あ、うんっ!」