よあけまえのキミへ

「――さて、そろそろ失礼するとしよう……ここは確か、茶屋だったな?」

「あ、そうです。いずみ屋っていいます……はっ! すみません、お茶も出さずに!」

 私はいくらか自由のきくようになった足で、ふらふらと瓶から水を汲み上げ、お湯をわかす準備をはじめる。

「いや、気を遣わなくていい。お前はいずみ屋の娘なのか?」

「いえ、ここでお手伝いをしながら居候させてもらっている身です」

「そうか、名は?」

「天野美湖といいます」

 沸かそうと汲んだ水を、湯飲みに注ぎながら言葉を返す。
 かすかに波打つ水の表面は、格子窓から射し込む淡い光を受けて、きらきらと光っている。

「天野か、分かった。また後日あらためて礼に来よう」

 そう言って木戸に手をかける中岡さんに駆け寄り、湯飲みを手渡す。

「のど、かわいてませんか? どうぞ!」

「……ああ、すまんな」

 本当はあったかいお茶を淹れてあげたかったけれど、あまり引き止めるのも悪い。

 湯飲みを静かに傾ける中岡さんを見ていると、心の奥でふいにざわざわと音をたてて、不安な気持ちが沸き上がってくる。


(このまま帰してしまって、大丈夫なのかな……?)


「あの、ちょっと待ってください!」

 湯飲みの中の水を飲み干し、こちらに向かって口を開きかけた中岡さんの袖をぎゅっとつかんで声を上げる。

「……どうした?」

「えっと、さっきまで誰かに追われていましたよね。だから、外に出ると危ないんじゃないかなって……」

 何と言葉をかけていいのかは分からないけれど、とにかく嫌な予感がする。
 ふるえる声を絞りだしながら、中岡さんを見上げて眉尻を下げる。

「ここが宿ならこのまま泊めてもらったんだが、茶屋となればそうもいかんだろう」

「お部屋ならあいてますよ! 昔は二階を下宿部屋にしてたんです! よかったら……」

「いや、匿ってもらえただけで十分だ。あまり気を遣わないでくれ」

 そっと私の肩を叩いて湯飲みを手渡すと、中岡さんは『心配するな』とでも言うように、あたたかく力のこもった眼差しをこちらに向ける。

「でも、あの……最近はたまに、夜道で怖い事件が起こったりするから心配で……」


 最近といっても、ここ数年――京の町は血生臭い。
 夜のあいだに殺されたであろう誰かの死体が、朝になって発見されるのはよくあることだ。
 どんな経緯で、誰がそれを行っているのかは分からないけれど、そういったイザコザのほとんどを持ち込んでいるのは他所からやってきた浪士達だろうと、町の人々は噂している。

「そうだな……俺もこんなところで追いかけ回される謂われはないんだが」

 ため息をつきながら、うんざりしたように中岡さんは小さく吐き出す。

「それじゃ、中岡さんも迷惑してるんですね? 彼ら、物盗りか何かですか……? しつこいようならお役人さんを呼んで来ましょうか」

「いや、それは必要ないが……物盗りというのは間違っていないかもな」

「許せませんっ! 大事なもの、盗られないように気をつけてくださいね! そうだ、近くの宿までご案内しましょうか? すぐそこにありますから!」

「近場に知り合いがいてな、今夜はそこに世話になるつもりだ。心配はいらない」

 一人鼻息を荒くしながら憤りをぶちまけている私を見て、中岡さんはかすかに苦笑する。

「この近くですか? それでも心配だな……私、送っていきます!」

「そうすると帰りはお前一人になってしまうだろう。こんな時分におなごを一人で帰らせるわけにはいかんからな……気遣い無用だ」

「うう……ごめんなさい、全然お役に立てなくて」

 しょんぼりと肩を落として私はうなだれる。
 思えばついさっき会ったばかりなわけだから、いくら頼りにしてほしくても、それに足る信頼が築けていないのだろう。

 私は写真を通して以前から中岡さんを知っていたけれど、中岡さんにしてみれば今しがた偶然出会った娘にすぎないんだ――。

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