よあけまえのキミへ
第八話 酢屋
今日からしばらくお店を閉めるという旨の貼り紙を出して、いずみ屋は正式に休業となった。
――かと言って暇をもてあましているわけでもなく、私は朝から自室にこもって、せっせと荷物の整理をしていた。
「うーん、ひとまずこんな感じでいいかな……」
かぐら屋へ移動するための荷造りと、お世話になった部屋の片付け。
ざっと手早く済ませてしまおうと思っていたものの、手をつけ始めるとなかなか骨が折れる作業だ。
なにせ私の部屋はとてつもなく物が多く、自分でも何がどこにあるか分からないような状態だからだ――。
「美湖ちゃん、どう? 終わりそう? またいつでも戻って来られるんだから、必要なもの以外はそのままにしておいても大丈夫だからね」
廊下からちらりと顔をのぞかせたかすみさんは、部屋のあちこちにごちゃごちゃと積み上がった紙や本や箱類を見て苦笑しながら、優しい言葉をかけてくれる。
「うん。それはそうなんだけどね……お父さんの絵とか道具とか、どれを持っていこうかなぁって」
そう言って、部屋の中を見渡す。
広い畳の上をおおい尽くすのは、父が生前使っていた絵道具たち――。
大小の筆に、積み重なった絵皿。紙と岩絵具、染料。
中でも染料や紙は種類が多く、父から『こいつは死ぬほど高かったから、美湖は触るんじゃないぞ!』とさんざん念を押された品も混じっている。
まるっきり素人である私には、どれが高価なものか全く分からないので、手をつけられないままとりあえず放置している状態だ。
未完の絵や、何やら線だけでうねうねと構想を描き連ねた下絵のようなものなど、捨てるに捨てられないものも多く積み重なっている。
「絵って、どんなの……? 見せてもらってもいい?」
時が止まったかのように半分ほど色が入った双六絵をてっぺんにして、その下に幾重にも広がる手付かずの作品の山を見て、かすみさんは目を輝かせる。
「たくさんあるよー。これとこれは、双六の絵でね、こっちは凧……武者をね、最初はいかつい顔にしてたんだけど、後からもうちょっと細身な男前にしてほしいって頼まれたとかで――」
「それで、牛若丸にしたのね! わぁ、まだ色はついていないけど素敵!」
ああでもないこうでもないと何度も書き直し、没になった案も含めて、凧絵は十数枚にも及ぶ。
「絵は、色がついたのを何枚か持っていこうかなって思ってるんだ。この双六絵とか、特に気に入ってるから……かすみさんのほうは片付け進んでる?」
「ええ、こっちはもうほとんど終わり。お店に飾ってある絵は、あのままにしておこうと思うのよ。お父様が集めたものも多いし」
「そっか。それじゃ、たまに手入れしたり様子見に来なきゃねぇ」
「うん、そのつもりよ。月に何度かはそうして見に来る予定だから、美湖ちゃんも大事なもの以外はここに置いてていいからね」
ぱらぱらと父の絵の束をめくりながら、かすみさんの表情は幸せそうにゆるんでいく。
ほんとうに絵が好きなんだなぁ。
「よかったらかすみさん、これ持っててもいいよ。なにか好きな絵があったら貰ってくれていいからね」
父が特に時間をかけて取り組んでいた完成間近の数枚と、個人的に好きだった玩具絵を数枚抜きとり、私は未完絵の山を風呂敷につつんでかすみさんに差し出した。
「えっ!? い、いいの? これって、天野先生の大切な……」
「いいよ! 価値の分からない私なんかより、かすみさんが持っててくれた方がお父さんも喜ぶと思うし。それに、この部屋には長くお世話になったから、お礼も兼ねて」
「美湖ちゃん……ありがとう。それじゃ、しばらく預かってじっくり見せてもらうね」
風呂敷をぎゅっと抱きしめながら、かすみさんはじわりと涙を浮かべてこちらに頭を下げる。
そんな反応をされてしまうと、こちらまで嬉しくなってくる。
むしろ、ついさっきまでどう片付けるべきか持てあまし、押し入れの奥へと封印しようとしていた自分に喝を入れたい。