よあけまえのキミへ
川沿いの見晴らしのいい道を歩いていると、酢屋の二階から半身を乗り出してぶんぶんと手を振るお兄さんの姿が目に入ってきた。
川を挟んではいるものの、互いの距離はそう離れていない。
少し声を張れば充分に届くはずだけれど、お兄さんは何やら身ぶり手振りで私に言葉を伝えようとしている。
両手を大きく振り回し、人差し指を下に向けて、何度かちょいちょいとつつくような仕草……ああ、なるほど。
言わんとしていることを理解し、酢屋さんの戸口に立つ。
ほどなくしてガラッと大きな音を立てて木戸が開いたと思えば、正面には笑顔で両手を広げるお兄さんが立っていた。
「昨夜は、わざわざ訪ねてきてくれたがやろ? 入れ違いになってしもうて残念じゃ……ささ、中へ入りや!」
お兄さんに招き入れられ、店の中へと足を踏み入れると、奥の階段付近からのそりと昨夜の無口なお兄さんが顔を出した。
「あ! 昨日の……! えっと、昨夜はどうも……」
あわてて頭を下げる私を見て、向こうも小さくうなずくようにしながらこちらを一瞥する。
「立ち話もなんじゃし、二階で話さんか? 陽之助(ようのすけ)、茶を淹れてやっとおせ」
階段のほうへと促すように私の背を押す酢屋のお兄さんは、無口なお兄さんに向かって慣れた様子で指示を出す。
「分かりました」
陽之助さんと呼ばれたその人は、さらりと返事をして奥の土間の方へと引っ込んでいった。
「……ここに下宿している人は多いんですか? さっきの方もそうですよね?」
お兄さんの後ろについて、みしみしと音を立てる階段をのぼりながら問いかける。
「そじゃな。陽之助とあと一人……まぁ、仕事仲間っちゅうところぜよ」
「なるほど、そうでしたか」
お仕事関係の人か。
二人のやりとりを見るかぎり、友達や単純な下宿仲間といった間柄とは少し違いそうな雰囲気だったので、それを聞いて納得する。
「ここが陽之助の部屋じゃ! さぁ、こっちに座りや」
案内されたのは、階段を上がってすぐの小部屋。
奥には仕切りが見えるから、そっちに酢屋のお兄さんの部屋があるのだろう。
「本がいっぱいですねぇ……すごいな、山になってる」
積み重なった本や紙が高く連なって、四方の壁を覆い尽くさんばかりだ。
他に私物のようなものはほとんど見当たらず、目につくものと言えば、窓際にそっと配置されている真新しい文机くらい――。
高々とそびえ立つ紙や書物が織り成すこのごちゃごちゃ感は、今朝までの私の部屋にそっくりだ!
「坂本さん、なぜおれの部屋に……?」
ずかずかと苛立たしげに階段を鳴らしながら部屋の入り口まで到着した陽之助さんは、眉間にしわを寄せて酢屋のお兄さんをにらんでいる。
「いやぁ、俺の部屋は今ぐっちゃぐちゃやきのう! まぁ、ええやいか。ここは綺麗に片付いちゅう」
「どこがですか、とても客を招き入れられるような状態じゃありません」
何やら機嫌をそこねた様子の陽之助さんは部屋の中をぐるりと見渡し、最後に私のほうに視線を向けてため息をつく。
「あの……ご迷惑でしたら帰ります。すみません、勝手にお部屋にあがってしまって」
坂本さんと呼ばれた酢屋のお兄さんと陽之助さんの顔を交互に見上げ、いたたまれなくなった私は二人の間で頭を下げた。
「陽之助、隣は今あれの途中でごちゃごちゃしちゅうき、すまんがここを使わせてもらえんか?」
「はぁ……そうでしたね、仕方ない。今回だけということで」
身をぎゅっとすぼめてたたずむ私の横で二人は何やらひそひそと言葉を交わしている。
そしてすぐさま交渉は成立したようで、陽之助さんはお盆に乗せていた湯飲みをトンと座布団の前に置いた。
「散らかってるが、座ってくれ」
「あ、はい……! ありがとうございます」
座布団の上へ座るよう目線で促される。
私は身を固くして少しかしこまりながら、ちょこんと部屋の中心へ腰をおろした。