よあけまえのキミへ
「しっかし、嬢ちゃんも腕を上げたのう! 鰻を釣るとは!」
陽之助さんの部屋の中心で、昨夜差し入れたお菓子の残りをつまみながら、坂本さんが愉快そうに声を上げた。
「いえいえ! あれ、実は知り合いがとってくれたもので……」
「なんと! そうじゃったか! とったっちゅうことは、手づかみかのう? 実は俺もつかみどりは得意なんじゃ」
「坂本さんもつかみどりできるんですね! すごいなぁ……あ、坂本さんって呼ばせてもらってよかったでしょうか?」
先ほどの会話の中で何気なく耳にし、頭に残っていた名前が思わず口をつき――私はあわてて口元を両手で覆う。
「構わんぜよ。お兄さんと呼ばれるのも好きやったがのう」
快活に笑い声を上げながら、坂本さんは私の頭をぽんぽんとなでてくれる。
外で言葉を交わしたことは何度もあったけれど、今日まで名前も知らなかったんだなぁと思うと、なんだか不思議な気分だ。
「えっと、そして、ようのすけさ……」
「陸奥(むつ)でいい。陸奥と呼んでくれ」
これから『呼んでいいですか?』の質問をぶつけるはずが、言い終わる前に投げ付けるような鋭い言葉が返ってきた。
「はい、分かりました。むちゅさん」
「……陸奥だ」
「む、む……つ、さん!」
噛まないように慎重に一字ずつ言葉を切る私を、陸奥さんはげんなりしたような表情で見守る。
その隣で、こらえていたものをぶちまけるように坂本さんがお腹を抱えて笑い転げた。
「はっはっはっ……! いや、嬢ちゃんはまっこと面白いのう!」
「何が面白いんです……そんな事より、ひとつ言っておきたいんだが、天野」
畳をバンバンと叩いて愉快そうに笑う坂本さんに冷ややかな視線を送りながら、陸奥さんがこちらに向き直る。
私の名前、覚えてくれてたんだ……!
「何でしょう?」
「昨夜預かった鰻重は、坂本さんに食わせることができなかった。すまない」
どういうことだろうと目を丸くする私に向かって、陸奥さんは頭を下げる。
「いやぁ、残念じゃ。朝方ここへ戻って来たんじゃが、もう重箱は空っぽでのう」
「そうだったんですか、酢屋の方々と一緒に召し上がったんですか?」
坂本さんあてに差し入れたものだからこちらとしては少し残念ではあるけれど、帰りが朝方となれば鰻重も冷めきっているだろうし、早めに誰かに食べてもらった方が良かったのかもしれない。
「いや、急な来客があって、その人に出した。もう片方はおれが……」
「うまかったか? 陽之介」
「いやまあ、うまかったですが……本題はそこではなくて。昨夜ここに来た客のことで話が」
陸奥さんは何やら神妙な顔つきで私の目を見つめる。
「何ですか?」
「今、目の前にある菓子なんだが……」
そう言って陸奥さんが中央のお盆の上に視線を落とすと、それに誘導されるように、私の目も自然とお菓子が盛られた皿の上へ向く。
「きのう鰻重と一緒に差し入れした、いずみ屋のお菓子ですね」
かすみさんがお菓子を包むのを隣で手伝ったから、その中身がどんな内容だったのか、きちんと把握している。
「いや……半分はそうだが、もう半分は昨夜遅くにここを訪ねてきた客人が置いていったものだ」
どういうことだろう、と陸奥さんの言葉を頭の中で反芻する。
「これは全部どう見てもいずみ屋のお菓子ですが……」
おはぎに大福、松風、八ツ橋、洲浜……どれも見慣れたものばかり。
菓子をお土産にと持ち帰るお客さんは多いけれど、昨日はどうだったかな。
たしか、揉め事を起こした常連の浪人さん方が、松風をお土産にと頼んでいたはずだ。
あと心当たりがある人といえば、昨夜遅くに店から送り出した――……
(まさか、中岡さん……?)
「心当たりはあるがか?」
坂本さんが穏やかな目で私を正面から見据える。
――何と答えたらいいだろう。
中岡さんからは、昨夜のことはあまり人に話すなと言われているし、人ちがいの可能性もある。
私がお菓子とにらめっこをしながら難しい顔で考え込んでいると、ふいに襖の向こうから声がかかった。
「兄さん方、お客さんが来てるよ。ケンさんとハシさんだけど、どうしよう? こっちに通してもいい?」
昨夜店先で応対してくれた少年の声だ。
「おお、丁度話がしたかったとこじゃ! すぐに通してやっとおせ」
立ち上がって勢いよく襖をあけ、廊下の向こうへと首をのばしながら坂本さんは少年と一言二言言葉を交わしている。
「あ、あの……お客さんがいらしたようですから、私はこのあたりで帰りますね」
どうやら話を聞くかぎり顔馴染みのお客さんのようなので、私がいては話もしにくいだろうと腰を浮かせる。
中岡さんの名前を出すはめになる前に、退散しておこう……。
「いや、このまま留まってくれないか。昨夜の話を聞かせてもらいたい」
その場を去ろうとする私の手首を強くつかんで、陸奥さんは『逃がさない』とでも言うように、射るような視線をこちらに向けて座れと促してくる。
(どうしよう……)
あきらめて、力なく座布団の上に膝をつく。
悪い人たちではなさそうだし、あたりさわりなく事情を説明しようかと考えはじめた矢先――二階に通された客人と視線がかち合った。
「……なんでおめぇがここにいんだよッッ!?」
互いの姿を目にした瞬間、どちらも仰天して目を見開いた。
――目の前にいるのは、間違いなく田中さんと橋本さんだ。