よあけまえのキミへ
外はすっかり、深い藍色に染まっていた。
これからすぐに空から色が消える。墨をぶちまけたような闇に町全体がのまれていく。
ぼやぼやしている時間はない、一刻もはやく誰かに助けを求めなきゃ。
「あさひ屋さんあさひ屋さん! すみません、かすみさんが大変で……」
まずは目の前のあさひ屋さんの戸を叩いた。
普段ならまだ表に出てお客さんの呼び込みをしている時刻なのに、今日に限ってきつく戸締まりがされている。
「話をきいてくれませんか、お願いします!」
本当はもっと強く戸を打ち大声を張り上げたいところだけど、向かいのいずみ屋に聞こえてしまえばかすみさんの身に危険が及ぶかもしれないので、ぐっと声をしぼって嘆願する。
「……うちは厄介ごとは御免や。ただでさえ新選組がここらをうろつくようになって迷惑やのに……他をあたってや」
閉ざされた戸の向こうから、忌々しげにしぼり出すおかみさんの声が聞こえてくる。
「かすみさんが浪士と一緒にお店の中に取り残されているんです! 大事になる前に協力してくれませんか!?」
「新選組の人も一緒なんちゃうの? その人に頼み。うちらはもう何もしてあげられへんよ」
「あの人はもう帰ってしまったんです……! それで、近所のみなさんに助けを……」
戸をたたく手を止め、口をつぐむ。
シンと静まり返った戸口の先には、もう人の気配を感じない。
『これ以上何もしてあげられることはない』と、昨夜も同じように言われたことを思い出す。
もう話を聞いてもらうことすらできないのか……。
「……お騒がせして申し訳ありませんでした」
これ以上ここで粘ってもどうにもならないだろうと頭を下げて、いずみ屋の隣に位置する谷口屋さんへと走る。
谷口屋さんとは、ご近所さんの中でも特に親しくさせてもらっていたから、きっと力になってくれるはずだ。
「谷口屋さん……あの、助けてください! かすみさんが……」
あさひ屋さんと同じく、早々とのれんをおろして戸締まりを済ませた谷口屋さんの戸をたたく。
「……ごめんな、美湖ちゃん。もういずみ屋さんに手貸せへんのよ……うちらの組で話し合うて決めたことや。全部あんたらが招いたことやからね」
申し訳ないと苦しげな声色ながら、ピシャリとこちらの懇願をはねつける。
「話し合ってって……そんな」
「あんたら、もうずっと前から浪士どもをかくまってつるんどったんやろ? 誰にでもええ顔して、ツケで食わせ放題……客はぜんぶあんたんとこにとられていくし……」
ぶつぶつと、恨みごとのような言葉が頭上から降り注ぐ。
上を見上げると、格子の窓からキッとつり上がった目でこちらを睨むおかみさんと目があった。
「みぃんな思っとるよ、あんたらがはよう出てったらええて。周りの助言もろくに聞かんと、浪士どもに甘い顔ばっか見せて……自業自得や。もう何があろうとうちらは知らんよ、助けんよ。どこに頼んでも一緒や」
つい先日まで笑顔であいさつを交わしあった谷口屋さんのおかみさん。
ほがらかで面倒見の良かった彼女が、今目の前で私に向けている瞳の奥にあるのは、敵意と拒絶だけだった。
たった一晩で、こんなにも人は変わってしまうのか。
こうなったのは、悪い噂ばかりが尾ひれをつけて広まっていったせい?
それとももしかして、こちらが気づかなかっただけで、もうずっとこの人たちは――……。
悪い方向にめぐる考えを断ちきるべく、ぶんぶんと左右に頭を振る。
そして折れそうになる気持ちをふるい立たせながら、なんとか声をしぼり出す。
「これまでご迷惑をおかけしてすみませんでした……! ですけど、今だけ話を聞いてください! かすみさんが大変なんです! お願いですから一緒に来てください……!」
謝罪の言葉をのべながら、止めどなく涙があふれてくる。
いつの間にかこんなにも、取り返しのつかない程にミゾができてしまった。
あさひ屋さんとの間にも、谷口屋さんとの間にも。
それがもはや覆せないことだとしても、どうか今だけは力を貸してほしい――!
かすみさんの命がかかっているんだ!
窓の向こうのおかみさんに頭を下げる。
額を地に擦り付けて頼み込む。
「……もう誰も助けんよ、関わりとうないんや。はよう消えて」
「今回だけでいいんです! お願いします……!」
「周りを見たらええよ、うちらはもうあんたらに手は貸さん、耳も貸さん。ただはよう出ていってほしいと願うだけ。どこに頼んでも同じや」
暗い格子の隙間からもれてくるのは、呪詛のような言葉だけだ。