よあけまえのキミへ
太助さんの案内で通された離れは、風通しがよく庭木のざわめきが耳に心地良い十畳ほどの部屋だった。
床の間には大輪の菊を描いた掛け軸と、素人目にも見事だと思える上品な活け花が飾ってある。
下座には文机が配置され、その上には何冊もの絵草紙が積み重なっている。
机の脇には画道具と玩具がたくさん。
そして畳んである布団の上には、山崎さんに預けておいた私の荷物が置いてあった。
「あ、これ……」
「新選組の隊士が届けに来たものだ。お前のもので間違いないな?」
「はい!」
結び目をほどいてざっと中身を確認してみる。
無くなっているものもなさそうだ。
「ならば今夜は早めに休め。しばらくはこの部屋で療養するのだ、余計な事は何も考えなくていい」
そう言って私の肩にそっと手を置き、雨京さんは静かに部屋を出ていった。
「旦那様はああ見えて、かすみお嬢様のことも、あなたのことも随分と心配していたのですよ。あなたが無事だと聞いて、屋敷に迎えると急ぎで準備を済ませまして……」
「ほんなら、この絵草紙や玩具も、あの人が用意しはったんですか?」
興味深そうに机の上のものをあさっていたゆきちゃんが、顔を上げて太助さんに尋ねる。
「ええ、旦那様自らお選びに。部屋のものはお好きなようにお使いください。必要な物は、私か女中に声をおかけくだされば手配いたします……それでは、ゆっくりお休みを」
深々と頭を下げながらそっと障子を閉めて、太助さんは部屋をあとにした。
残ったのは私とゆきちゃんの二人だけだ。
「みこちんのためにわざわざ用意したっちゅうわりに、おかしな品揃えやな。子ども向けの絵草紙ばっかや!」
「私、あんまり難しい字は読めないからかなぁ。雨京さん忙しいのに、気をつかわせちゃったね」
ぱらぱらと愉快そうに絵草紙をめくるゆきちゃんの隣に立って、中身をのぞき込む。
絵が大きく描かれて、読みやすく分かりやすそうなお伽の本だ。
「これだけあれば閉じこもりきりでもしばらく飽きんやろね! さ、布団敷いてそろそろ寝よか」
「うん、そうだね」
私たちは並んで寝床の準備をはじめる。
「みこちん、休んどき! 全部うちがやるよ」
「ううん、これくらいさせて。ずっと同じ体勢でいたら、なんだか体が固まっちゃったみたいで……動いてたほうが落ち着くの」
「あんま無理せんでな、寝る前にもっかい傷見せてもらうわ」
「うん! ありがとう、ゆきちゃん!」
布団を敷いて傷の手当てを終えると、ゆきちゃんはすぐさま床について眠りに落ちた。
「せっかくやしいろいろ話そ! よっしゃ! 気になる男のハナシ再開やー!」と上機嫌で横になったと思ったら、私の返答を待たずにすやすやと寝息を立てていたのだ。
(疲れてたのかなぁ……ゆきちゃん、今日は一日お世話してくれて、ありがと)
ここ数日、辛いことだらけで心身ともにぼろぼろだったけれど、ゆきちゃんと話している間はいくらかそれが和らいだ。
きっと、彼女が昔のままだからだろう。
場を明るくしてくれる。
嫌なことは忘れさせてくれる。
――雨京さんは言った。
『余計なことは何も考えなくていい』と。
かすみさんを探し出すために自分たちが出来ることはほとんどないと。
まわりの人たちはたぶん、私が事件を忘れることで元気になれると考えている。
私にできることなんて何一つないと思っているのだ。
今回のいずみ屋の事件は、このまま誰もが記憶から消し去ろうとしていくのだろうか。
間違った対応の果てに店を失って、自業自得だと。
悪い客につかまって運が悪かったねと。
それで済ませて泣き寝入りするしかないのだろうか。
――じゃあ、かすみさんはどうなるの?
もしも生きているとしたら、逃げ延びて自力でここへ帰ってくるのを待つしかないのかな?
水瀬や深門は?
まだ京にいるかもしれないのに、放っておくの?
(中岡さんたちは、今どうしているだろう……)
引き続き水瀬たちを追うみたいだけど。
手がかりもなく、追跡も振り出しに戻った今、できることは少ないはずだ。
今この事件を忘れ去ろうとせずに向き合っているのは、きっと中岡さんたちと新選組だけだろう。
私はどちらともつながりを持っているし、会おうと思えば会える。
ただ、どちらかに頼ろうと考えるなら片方との接触を断たなければならない。
彼らは仲がよくないそうだから……。
中岡さんたちも、山崎さんたちも親切にしてくれた。
どちらも悪い人たちじゃない。
――でも、選ぶとしたら悩むまでもなく中岡さんたちだ。
彼らは当事者だから。
裏切られ、大切なものを盗まれている。
犯人を捕まえるまで解決しない問題を抱えている。
忘れ去ることなんてできないはずだ。
逆に新選組は当事者ではない分、今回の事件も取り扱う多くの案件の中のひとつに過ぎないはずだ。
いずれ優先順位が下がって、忘れ去られてしまう可能性だってある。
何より、私は中岡さんたちに恩を感じている。
あの人たちを信じたい。力になりたい。
(……よし、決めた)
近いうちに、中岡さんたちとちゃんと話をしよう。
水瀬一派が捕まるまで、私も一緒に事件を追わせてほしいと頼むんだ。
こうして一人で考える時間ができると、かすみさんと交わした最後の会話が頭をよぎる。
別れ際の、決意の表情も。
店も絵も、なにもかもが燃えてしまった。
私たちが大切にしていたもののほとんどが。
だけど、かすみさんだけは失いたくない。
きっとまだどこかで生きているはずだ。
だから、早く動き出さなきゃいけない。
一人でも、かすみさんを探しに行くんだ……!
寝返りをうとうと動かした半身に、痛みが走る。
早く怪我を治さなきゃ。
このまま寝ているだけじゃ、頭の中が爆発してしまいそうだ。