よあけまえのキミへ
「みこちん! うち、ちょっと兄ちゃんとこ戻ってくるわ」
朝餉の膳を片付けて私の傷の消毒を終えると、ゆきちゃんは手鏡を片手に身だしなみを整えながら、そう切りだした。
「あ、うん。いつまでもここにいるわけにはいかないもんね……ゆきちゃんも診療所のお手伝いとかあるだろうし」
「また夕方ごろにはこっち戻るよ、ちょっと心配な患者がおってな……」
「そうなの? だったら行ってあげて。私は一人でも大丈夫だから。むた兄によろしくね」
「うん。ほなちょっと、いってくるわ! 安静にしとってなぁ!」
離れの障子を開けて、ぱたぱたと廊下を走っていくゆきちゃんを慌ただしく見送る。
一息ついて見上げた空は、雲ひとつない見事な青だ。清々しい。
髪を撫でていくかすかな風が心地よくて、このままここに座りこんで眠ってしまいたくなる。
……暇、だなぁ。
今までだったら、この時間はいずみ屋の手伝いをしていた。
それが終わったら釣りに出かけて、そのあとはかすみさんと一緒に夕餉の支度をして……。
今思えば毎日何かしらやることがあって、それなりに楽しく忙しく日々を過ごしていた。
暇だなんて思ったことはほとんどなかったなぁ。
「美湖様、お体の具合はどうですか?」
陽当たりのいい縁側で、雨京さんが用意してくれていた絵草紙を枕にうとうとしていた私は、優しく肩を叩かれて体をおこした。
「あ、女中さん!」
「わたくし、やえと申します。雪子さんがお出かけになって美湖様が退屈しておられるのではと思いまして」
やえと名乗った女中さんは、私の目の前に座ると両手をついて頭を下げる。
きりりとつり目がちだけれどきつい感じは受けない、凜として落ち着いたお姉さんだ。
歳はたぶん、かすみさんより少し上くらいかな。
「退屈です、傷の痛みももうほとんどなくてすっかり元気ですから、ちょっとお外を歩いてみようかなぁとか――」
「なりません」
私がすべて言い終える前に、やえさんはうっすらと微笑んだままこちらのささやかな訴えを両断した。
嘘がバレたかな……実際はまだ少し傷も痛むし。
「ちょっとだけ……かぐら屋のまわりをぐるっと散歩するくらいは……」
「美湖様を外に出すことはならぬと、旦那様から仰せつかっております。それに――」
「そ、それに……?」
「怪しげな男が付近をうろついております。危険ですので、当分は離れでお過ごしくださいませ」
やえさんは廊下に散乱した読みかけの絵草紙をかき集めて積み上げながら、離れに戻るよう目線でうながした。
「その、怪しげな人というのはどんな人でした!?」
まさか、水瀬たちがここまで追って来たなんてことは……。
嫌な汗が背筋を伝う。
「浪士風の男の二人づれです。美湖様のお知り合いだと言い張っておりましたが、信用ならず追い返しました」
「知り合い!? すみません、もう少し特徴とか……」
「名はたしか、田中さんと陸奥さん。美湖様の忘れ物を届けに来たと釣竿を持っていらして――」
「知り合いですっ、その二人!! 釣竿も確かに私のものだと思います! 前に会ったときに忘れていってしまって……!」
田中さんと陸奥さん!
わざわざ訪ねてきてくれたんだ!!
私は思わず立ち上がって、はるか向こうに立つ門のほうへ背伸びをする。
「本当にお知り合いであったとしても、会わせることはできません。今後、浪士との関わりは一切断つようにと旦那様が」
「……でも、あの人たちは悪い人じゃないんです。まだ近くにいるかもしれません、私ちょっとだけ会って話して来ます!」
「なりません、離れにお戻りください」
駆け出そうとする私の手首をつかんで、やえさんが制止する。
力が強い。
もがいてもびくともせず、私はその場から一歩も動けなくなった。
「新しい釣り竿をご所望だと、旦那様にお伝えしておきます。お体が癒えましたら、わたくしと共に釣りに出かけましょう」
淡々と、だけれど有無を言わさぬ調子でこちらにそう言い聞かせながら、やえさんは絵草紙を抱えて離れにつづく廊下へと私の背を押した。
――そうだ、思い出した。
診療所で雨京さんから言われたんだ。
「浪士と付き合うのはやめろ」と。
その言葉を受け入れなかったから私はこうして、神楽木家のすみに閉じこめられている。
やえさんはきっと、私が勝手な行動をしないように監視しているんだ。
それから夕方近くまで、やえさんが読み聞かせてくれるおとぎ話を、死んだ魚のような目で聞きつづけた。
抑揚の少ないお経のような読み聞かせはまさに苦痛。
『安静に』と布団に横になるよううながされ、寝てしまうのは失礼だと思ってなんとか目を見開いていたけれど、最終的に私は睡魔に負けた。