よあけまえのキミへ
「それと、釣竿のことなんだが……」
ふと思い出したように口をひらいた陸奥さんにはっとして、にじんできた涙をぬぐう。
「あ、はい。昼間届けにきてくださったんですよね!」
「……ああ。しかし、ここの女中に追い返されて今回は諦めた」
「薙刀の先でちょこっと突かれたからな、怖すぎだろあのねーちゃん! 今夜は持ってこれなかったが、竿はむっちゃんが預かってるからよ」
田中さんは顔をしかめて脇腹のあたりをさすっている。
やえさん、怒らせたら怖そう。私も気をつけなきゃ。
「それじゃ、また今度酢屋さんに……」
言いかけて、口をつぐむ。
『もう酢屋には来るな』と、陸奥さんから言われていたんだった。
「取りに来てくれ、いつでも」
言葉につまった私を見て何か察したのか、いつもの気だるさが抜けたしっかりした声色で、陸奥さんが言った。
「いいんですか……?」
「ああ」
「それじゃ、行きます! 近いうちに必ず!」
「あの事件以来、坂本さんがえらくお前のことを心配しているからな。一度顔を見せにきてやってくれ」
「はいっ……! そうだ、ちなみに田中さんはどこに住んでるんですか?」
きょろきょろと田中さんの姿を探すと、蔵の裏手に積み上げてあった食材運搬用の丈夫な木箱で足場を作り、塀によじ登っているところだった。
「んなもんヒミツだ! 何かあったらまず、むっちゃんとこに行ってくれ」
手際よく塀のてっぺんまでのぼると、田中さんはこちらをふり返って少し意地悪な顔で突っぱねるような返事をする。
「そんなぁ……それじゃ、中岡さんたちはどこに?」
「ヒミツだヒミツ! 京のどっかにはいるから心配すんな。またそのうち会おうぜ!」
「ヒミツばっかりじゃないですかぁ……でも、また会えるなら今は深く聞きません。かならず連絡くださいね!」
「おうよ、約束だ! 長居しちまって悪かったな。そろそろ行かねぇと……雨降ってきそうだ」
私の言葉に笑顔でうなずいてみせると、田中さんはそのまま勢いよく飛び上がり、塀の向こうへと着地した。
言われてみれば雲の流れが早いし、月も隠れがちだ。
それに、吹き抜ける風が湿った雨のにおいを運んでくる。
私は話に夢中で気づかなかったけど、田中さんはちゃんと細かい変化に気を配っていたんだな。
「そろそろおれも行く。おれが向こうへ降りたあと、木にくくっておいた縄をほどいてもらえるか?」
田中さんに続いて、陸奥さんも足場に登って塀をまたぐ準備をはじめる。
「分かりました!」
「頼む」
陸奥さんはそう約束して塀の上へと登り、こちらを一瞥して田中さんの待つ路地へと降り立った。
二人が無事に塀を越えたのを確認して、すぐに足場に使った木箱を元通りに整える。
それから指示どおり、木に結んであった縄をほどきにかかる。
だいぶきつく結んでいたから少し大変だけど……なんとか成功!
「陸奥さん、縄がほどけました。そちらから引っ張ってください」
「了解だ」
するすると静かに縄は巻き取られ、陸奥さんたちの手元へ帰っていった。
「回収できたぜ、ありがとよ!」
「はい、気をつけて帰ってくださいね」
「ああ、またな」
塀越しに声をひそめて、言葉を交わす。
そろりそろりとその場を後にするかすかな二人の足音が聞こえなくなるまで、私は一歩も動かずに彼らを見送った。