流れのままに恋したい ~ 過去に傷ついたふたりの恋物語 ~
トクトクと、彼の心臓の音が聞こえる。

私とどちらが早いのかと思うほど、彼の鼓動も早い気がした。


「これ・・・何の匂いだろ。シャンプーか、香水か・・・いい匂いがする」


耳の上の方で、ささやくような彼の声がする。


「香水・・・だと思います。お花屋さんみたいな、香りじゃないですか?」

「あぁ、そうなんだ。花屋って、こんないい匂いだって知らなかった」

「上野さんも・・・シトラスの香りがします」

「うん、ちょっとだけ付けてるから」

「この香り・・・どこかで・・・」

「ん?」


どこかで、この香りに近づいたことがある。
でも、どこだろう。


「あ、いえ。あの・・・いつまで・・・こうやって」


あたりはもう暗くなっていて、それほど目立たないとはいえ、だんだん気まずくなってきた。


「いつまでだろ。離したくなくて」


ギュッ、と胸が苦しくなった。


どうして、大事な人がいるのに、そんなことを言うんだろうか。
スーッと熱が冷めたように、私は冷静になる。

スーツのジャケットを着た彼の胸に両手を当て、腕の中から離れた。


「・・・ごめんなさい」

「あ、いや、俺のほうこそ、ごめん・・・」


もう、お酒の力はいらない。


「私、聞いたんです」

「え? 何を?」


顔を上げ、彼の目を見て尋ねる。


「上野さん、大切に思ってらっしゃる方がいるんですよね?」

「・・・え?」

「何年も前から好きな人がいる・・・って。だから・・・」

「だから?」

「思わせぶりなこと・・・しないでください。これ以上・・・」


これ以上、あなたを好きにさせないでほしい。

その言葉だけは飲み込んだ。


「いや・・・おそらく、何か勘違いを・・・いや、俺もか・・・。何から話せばいいんだ」


彼は珍しくうろたえている。
とはいえ、弁解してもらう必要もないと思った。

私は近くにあったベンチに座る。


「私が前にお付き合いした人には、結婚を約束した相手がいたんです。でも、私は知らなかった」

「えっ?」

「ひと言の謝罪もありませんでした。それどころか、『誘うような顔をしたのは、莉夏の方だろう?』って」

「そんな・・・」

「さっき上野さんに、どんな顔をしてるか・・・って聞いたのは、もしかしたら、その時と同じ顔をしていたのかなって」


口に右手をあて、彼は言葉を選んでいるようだった。


「誘うような顔、してましたか?」


彼は首を横に振る。


「だから抱き締めたんじゃないですか?」

「そうじゃない!」


声を荒げて彼は否定した。


「そうじゃない・・・ただ・・・」

「ただ?」

「俺が触れたくて、本当にそれだけで、気付いたら・・・」

「でも、ダメなんです」

「ダメ?」

「大切に思ってる人がいるなら・・・ダメですよ」

「だから、それは・・・」

「あんな思いするのは、一度でたくさん。これ以上・・・」


さっき飲み込んだ言葉を思い返し、口にした。


「これ以上、あなたを好きにさせないでください」
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