流れのままに恋したい ~ 過去に傷ついたふたりの恋物語 ~
副社長の言葉通り、俺はベトナムの合弁会社立ち上げメンバーの任を解かれ、元のIT企画部長に戻った。

そして彼女もまた、今日から部に戻ってくることになっていた。


「澤田さん、お久しぶりです。お帰りなさい」


庶務の早川さんの明るい声が響く。


「やっと戻ってこれました。早川さん、またよろしくお願いします」

「こちらこそ!」


久しぶりに見た彼女の表情は、まだ秘書の顔をしていた。


「やっと帰って来たか」


席を立ち、俺も彼女に声を掛ける。


「はい、上野部長。改めて、よろしくお願いいたします」

「こちらこそ、よろしく」


そう言って、俺は右手を差し出した。
彼女と早川さんが、不思議そうに俺を見ている。

ん? 何かおかしなことでも?
そうか、ついいつものクセで・・・。


「俺、ベトナムに長期出張してたろ? 握手するのが当たり前になってるんだよ。ごめん、今もクセになってて」


ベトナム人は、会った時に相手と握手をすることが多く、すっかりそれに慣れてしまっていた。

とはいえ、差し出した手をどうしたものか・・・。


「ま、でも、戻ってきた挨拶がわりに。嫌じゃなければ」


咄嗟に、そう取り繕った。

彼女は微笑んで、俺の手にそっと触れた。
力を入れ過ぎないように気を付けながら、彼女の手を握った。

彼女に触れたのは、あの時以来だ・・・。


そう思いつつも、もう秘書ではなくなった彼女に、上司として指示を出す。


「さっそくなんだけどさ」

「あ、はい」

「来客あるから、一緒に来てくれる? これから担当してもらう業務に関わる会社だから」

「は・・・い、すぐ準備しますね」


パタパタと持ち物を揃える彼女の横顔に、場所を伝える。


「3階の302ルームだから。よろしく」

「はい」

「澤田さん、これが澤田さんの新しい名刺で・・・こっちがゲスト用ストラップです。よろしくお願いします」

「早川さん、ありがとうございます」


ふたりの会話を横目に、俺は先にフロアを出た。

エレベーターを待っていると彼女もやって来て、同じエレベーターに乗り込んだ。

他には誰も乗っていなかったけれど、なんだか話をする感じでもなく、ガラス張りの窓から外を眺めていた。


エレベーターが4階で止まったところで、なぜか彼女が降りようとしていた。

まだ3階じゃないが、勘違いか?


降りる彼女を引き止めなければと、声を掛けるより先に、俺は手をのばす。

肩でも腕でも、触れたところで良かったのだが、ちょうどのばした先に彼女の手首があり、触れるつもりがつかんだ形になった。


その瞬間、振り返った彼女の表情は戸惑いでいっぱいに見えた。
< 29 / 54 >

この作品をシェア

pagetop