流れのままに恋したい ~ 過去に傷ついたふたりの恋物語 ~
「ここに座って」


俺は手をつかんだまま、彼女をデスクのサイドテーブルに引き寄せた。


「申請書は俺が見るから、捺印は澤田さんが手伝ってくれる?」

「・・・はい」


俺は彼女の手を離し、キャビネから印鑑を出す。
彼女の顔は、さっきからずっと赤いままだ。


「澤田さん・・・顔、赤いよ」


俺の言葉に、彼女は手で頬を覆った。


「部長が急に手をつかむから、びっくりして」

「あ、そうか、ごめん」


謝罪の言葉を口にしつつ、まったく悪いとは思っていなかったが。


「いえ・・・」

「澤田さんもコーヒーあるんだよね?」

「はい」

「冷めちゃうから持ってきて。飲みながらやろう」


彼女がコーヒーを持って戻ってくる。


「澤田さんも、半分食べて」


スコーンを半分に割り、彼女に渡す。


「半分なら、いいよね?」

「ふふっ・・・はい、いただきます」


・・・笑った。
俺に、笑いかけた。


「やっと笑った」

「はい?」

「多分、俺の前で初めてちゃんと笑った」

「そんなこと・・・無いと思いますけど・・・」


赤みのひいた頬が、また赤くなる。

笑顔を向けてくれたことは、秘書の時にも何度かあった。

でも、俺に向けて笑いかけてくれたのは、初めてだと思った。


「・・・ヤバイな」

「何が・・・ですか?」


ここが会社じゃなかったら、俺は勢いで彼女にキスしたんじゃないだろうか。


「知りたい?」

「・・・知りたくないです」


俺の問い掛けに、彼女は目をそらす。

微妙な空気が流れる中で、俺たちはひとまず仕事を終わらせた。


「これで捺印終わり?」

「はい。ありがとうございました」


彼女が椅子から立ち上がる。


「帰る?」

「あ・・・捺印が終わったら、経営企画部のポストに投函してほしいと、早川さんに頼まれていて」

「そうか」

「出してきちゃいますね」


フロアの空調を切ろうと、入り口のドア近くまで行くと、廊下の壁を背に寄りかかっている彼女が見えた。


「どうした、そんなところで」

「きゃっ!」


ドアを開けて声をかけると、思いの外、彼女が驚いた声をあげた。


「そんなに驚くなよ。ん? 経企に行ったんじゃなかったのか?」

「あ、今から、今から行ってきます」


まだ書類を抱えていて、廊下で何をしていたんだろうか。


「あの、さ」

「はい」


『一緒に帰るか?』と言いたかった。
たったひと言なのに、言い出せなかった。


「部長?」


彼女が不思議そうな顔をする。


「あ、ごめん引き留めて」

「いえ・・・じゃ、出してきますね」


ダメだな。
いろんな意味で。
いいオトナが、何をしてるんだか。


彼女が戻ってきてフロアを出たら、俺も帰ることにした。

『一緒に帰る』とは言っても、駅までのつもりだった。


なんてことはない、ただ雑談をして10分足らずの道を一緒に歩くだけ。

それだけで、良かった。
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