情熱の続き
「険しい顔して、どうしたー?」
テレビを見ていたはずの貴広に笑って話しかけられて、里穂はあわててパソコンの画面を切り替えた。彼のいるところからは、里穂が何を見ているかなんてわからないはずなのに。そして、共通の友人とのメールのやりとりは、隠すことではないはずなのに。
「何でもないわ」
険しい顔をしていたのかと思いながら、里穂がわずかに作り笑いのように笑って言うと、貴広は困ったように笑った。
「最近、多いな。‘何でもない’が」
「そうかしら?」
里穂は首をかしげながら笑顔で答えた。自分ではそんなに意識していなかったのだ。
「多いよ。俺としては、何でもないことでも話して欲しいんだけどな」
貴広はテレビを消してソファから立ち上がると、里穂のいるダイニングテーブルのほうに近づいてきた。
「何してたの?」
笑顔で、決して何かを探ろうというのではなく、単純な好奇心を持って隣に座った夫に対して、里穂は悲しみと申し訳なさがこみあげてきた。宗一郎のメールを見ていたことは、言えなかった。
「メールよ。両親が、いつ帰国するんだって寂しがっているから」
嘘じゃない。両親とのメールは定期的に続いている。帰国を待ちわびていることも事実だった。
「ああ、里穂は一人娘だもんな。家族仲いいし、寂しい想いをさせてしまって申し訳ないな」
貴広がすまなそうに言うので、里穂は大丈夫と笑った。
「日本にいたときも頻繁に会えていたわけじゃないし、気にしないで。でも近いうちに一度帰国したいわ。やっぱりちょっと、日本が恋しい気がして。」
「日本の何が恋しい?」
貴広は言いながら、すっかり長くなった里穂の髪の毛を指ですくって、その耳を出した。耳には、貴広がプレゼントしてくれたダイヤが施された控えめながら質のいいピアスが光っていた。
ロンドンに来てから髪の毛は一度も切っていないので、セミロングだった髪の毛は胸元を隠すほどのロングヘアになっていた。海外の美容室は日本ほど丁寧に仕上げてくれないという話や、切って失敗したなんて話ばかり聞いていたから、どうも切る気がしていなかったのだ。でも日本に帰りたいほどの理由にはならない。
「食べ物?」
「それも大丈夫。日本の食材も手に入るし、海外の料理もおいしいし」
ではいったい何だ?という顔をして里穂の顔を覗き込む貴広に、里穂は観念したように言った。
「やっぱり友達や家族と、たまには直接会いたいって思うのよ。パソコン越しで顔を見て話はできても、どこか寂しいなって」
振り返ってみれば、結婚してすぐに海外に渡って、これまでの生活にあったすべてが恋しくなってしまう里穂の気持ちも、貴広は当然だと思っていた。貴広自身はやるべき仕事もあったし、同僚もいたし、寂しさは特別なかった。
里穂と暮らしたい貴広の気持ちは、里穂が貴広と暮らしたいと思う気持ちよりも、はるかに大きいことも彼は自覚していた。この生活を熱望していたのは貴広だったから。
彼にとって家事を手伝うことも、休日に里穂の行きたい場所に付き合うことも、里穂に「ここにきてよかった」と思ってもらえるなら苦ではないどころか、喜びでもあった。
「貴広だって、こっちに仕事仲間はいても、やっぱり日本にいる友達と会いたいって思うときはあるでしょう?」
里穂が貴広に問いかけると、彼は平然と笑った。
「いや、全然」
全然という返事に里穂は思わず目を丸くする。
「俺はね、里穂がいればどこでも平気。里穂さえいればいい」
言いながら、座ったまま貴広は里穂の額に自分の額をくっつけて、その右腕で里穂を抱き寄せ、左手は里穂の髪をなでていた。まるで‘いい子、いい子’されているようで里穂は恥ずかしくなる。
「そんなこと言ったら、宗と桃子が寂しがるわよ」
里穂がその名前を口にした次の瞬間、里穂の髪を撫でていた貴広の手の動きが止まる。それから腰に回されていた彼の腕に力が入ったのを里穂はわかった。
「あいつらが寂しがるわけないって」
自分で言って貴広はケタケタと笑った。その様子に里穂は何も言えなくて、静かに彼の腕から抜けようとしたときだった。
「里穂」
ふいに貴広に唇を塞がれて、思いがけないキスに里穂は体ごと顔を後ろに引いてしまった。そんなことをしたら貴広を傷つけてしまうのは間違いなかった。
「びっくりしちゃって」
ごめんねと続けて里穂が言おうとしたところで、貴広は里穂の手を掴んでもう一度里穂の唇を塞いだ。
謝罪の言葉さえも拒む貴広のキス。何度も、何度も唇を啄まれて、抱き寄せられて、里穂は彼が自分を今すぐ抱きたいと思っていることは十分にわかった。彼は不安を消したいのだ。まだ結婚する前、二人が友人同士だったときに、里穂は貴広に言われたことがある。「宗だから嫉妬する」と。そのときのことは、どれだけ時間が経っても鮮明に覚えている。
「宗に、会いたい?」
十数回のキスののち、里穂の顔を見て貴広は言った。ごく普通の顔だった。でもその顔が里穂にはなぜだか泣いているみたいに見えてしまって、声を震わせて、絞り出すように言った。
「桃子も。みんなで、学生時代みたいに遊びたい」
それだけ聞くと、貴広はわかったと納得したように言って、一つ約束をしてくれた。近いうちに有給を取るから、少し日本に帰ろうと。
いつも堂々としていて、物事をスマートにこなす貴広が、自分のことに対してだけ繊細になることが、里穂は切なかった。
ありがとうと里穂が言うと、貴広はもう一度里穂を強く抱きしめて、一度目は唇に、二度目はニットの隙間から首筋にキスをした。熱くて、優しい。こんなふうに求められて、心が動かないはずがない。里穂はためらいながらも、その仕草を繰り返されていくうちに、なんだかいたたまれなくて「いいよ」と返事をした。
ベッドの中で彼が自分を求めているときの顔は、とても切ない。だからどこか不安になるのかなとも里穂は思った。
それでもこんなに自分を求めてくれる人は他にいないと思うのだ。同時に、自分はきちんと貴広のことを好きだとも。
…宗はこういうとき、どんな顔をするのだろう。
ふと、そんなことを思ったとたん、里穂は目の前で自分のためだけに汗をかいている貴広に申し訳なくなって、彼を抱きしめた。貴広は何も言わず、より強い力で抱きしめ返してくれた。