情熱の続き
4.ただの挨拶
寝室のクローゼットから荷物を次々にスーツケースに詰めていく里穂の姿は、まるで家出をする少女のように貴広の目に映っていた。

「たった8日間の間にそんなに着替えが必要?」

貴広の言葉に、支度をしていた手を止めて里穂は顔を上げて言った。

「だって、両親のいる軽井沢は寒そうだし、東京は今年は暖冬の予報だから、ちょっと春らしい服もあったほうがよさそうだし。そうなるとコート2着はあってもいいし、ニットも色違いで持って行っても困らないと思うの。それからブーツだけでなくてパンプスも必要かなって。おかしいかしら?」

里穂の問いかけに缶ビールを片手に貴広は少し困ったように笑ってダメということはないけど、と言う。

「そんなに必要なのかなって思ってさ」

里穂は言った。

「久しぶりの日本が楽しみな気持ちをわかって」

そしてまたせっせと荷物を詰め込んでいく手を動かした。その様子が、貴広には落ち着かなかった。荷物を全部持って、このまま出て行ってしまいそうに見えたからだ。

何のためにそんなに着飾ろうとしているのか、という言葉を貴広はビールと一緒にぐっと飲みこんでリビングに一人戻った。

里穂のホームシック(という表現が適切かはわからないが)を解消するために取得した有給休暇と日本への一時帰国は決して間違っていないはずなのに、貴広はあまり乗り気でなかった。
日本には里穂の大切なものがたくさんある。このまま日本にいたい、ロンドンに戻りたくないと言われないとは言い切れないのだ。

何より、宗一郎が気になっていた。
宗一郎と里穂は似ていた。二人とも穏やかで、様子をうかがって、よく考えて物事を言うところ。誰も傷つかないように言葉を選んで、控えめにほほ笑んでいるところ。
だからこそ、貴広はどちらとも長い間いい関係でいられたと思っていた。里穂とも宗一郎とも。

「ごめんね、もう夕食の時間ね」

そう言って、缶ビールにビーフジャーキーをつまんで時間をもてあましていた貴広のところに里穂がやってきて、あわただしくオーブンのスイッチを入れて、冷蔵庫からボウルやらタッパーやらを取り出して皿に盛り付け始めた。
その手際の良さに貴広はいつも感心するが、里穂本人は難しい料理などできないからだと言う。しかしながら、里穂の料理はシンプルで、素材を生かしていて、そして時折変わった調味料などを取り入れるなどの工夫で、食事はいつも充実していた。

「はい、乾杯しよう。お疲れさま」

そういって里穂は冷蔵庫から取り出した揃いの缶ビールを貴広の手元に傾けてきた。曇りのない里穂の笑顔。こういうとき、一瞬でも里穂に対して不安や不満を抱いた自分に対して、貴広はものすごく後悔し、反省する。きちんと自分を選んでここまできてくれた里穂を、誰よりも自分が信じないでどうすると思うのだ。

「好きよ。貴広。今までも、これからも。本当に。大好きよ」

里穂を初めて抱いたとき、彼女はそう言った。泣いているような声だったことは、気づかない振りをした。ただ抱きしめるしかできなかった。自分がどれだけ里穂を想っているかを伝えるのに、もう、それしかなかった。

そうやって貴広が気づかない振りをしてきたことはもう一つある。宗一郎が里穂を大切に思っていたことだ。ロンドンへの転勤を通達されて一週間ほどした夜、宗一郎と飲みに行った。里穂に自分の想いを告げて、ロンドンに一緒に連れて行きたいと、貴広が話したとき、宗一郎の顔がわずかに歪んだことに、貴広は気づかない振りをした。

もしもそのとき、宗一郎が「自分も同じように里穂を大切に思っている」と話してくれたなら、結果は、今と同じではなかったかもしれない。もっとも、宗一郎がそんなことを言うはずがないことは、長い付き合いの貴広には予想できていた。里穂の決断にすべてを委ねたその姿勢も、十分に想像できた。そんな宗一郎のことを知っていながら、里穂に手を出した自分を、ずるいやつだと貴広は思わなくない。

「そんなに強く抱きしめなくても大丈夫。ここにいるわ。安心して」

時折、里穂を抱きしめる貴広の腕に力が入るとき、彼女は笑ってそう言った。里穂が貴広を好きでいてくれる気持ちは十分に伝わっていたけれど、言葉できちんと伝えてもらうたびに、まるで自分の取扱説明書をもっているみたいで、貴広は少しだけ幼稚な自分が恥ずかしくなる。

だから貴広は、もし里穂が自分の前からいなくなるときは、できるだけ自分を傷つけないようにしてくれるはずだと思っていた。宗一郎も。やさしい彼らは、きっと同じように。
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