情熱の続き
「宗、来週、飲まない?」
九州、関西、東海と続いて順当に関東地方も梅雨入りした頃、高校時代の同級生の貴広から宗一郎に連絡があった。
「珍しい誘い。研究所の下っ端と飲んでも仕事にならないよ」
「やめろよ。俺がメリットのないやつと飲まないみたいな言い方するな。俺は友達と飲むのも好きなの」
冗談のつもりで言った宗一郎の言葉にも貴広は熱くなって返す。いつだってまっすぐな男だ。昔から、部活のテニスのことでも勉強のことでも、社会人になってからは仕事のことでも、とにかく一途でひたむきに取り組む。ただひとつ、里穂のことを除いて。
「わかってる。それじゃあ金曜に東京駅で」
何を言われるのかは想像がつくような気もしたし、つかないような気もした。たまにこういう誘いがあるたびに、宗一郎は一番言われたくないことをついに言われるのではないかと恐れる。そしてただただくだらない話や懐かしい話をしてお酒を飲むだけの夜だとわかると安心して、素直に笑って、気持ちよくビールを喉に通すのだ。
貴広は、院卒の宗一郎に比べて二年早く就職しており、もう社会人も五年目に入った。遠くから見るといかにも都会の一流のサラリーマンという身なりなのに、親しい人間に向ける表情はどれも幼いころと少しも変わらない。
待ち合わせの店に行くと貴広はもう半分ほどビールのジョッキを空にしていた。
「遅くなってごめん」
「いや、俺も今来たばっか」
宗一郎が隣に座ると貴広は生2つと指を二本ぴんと伸ばして店員の男性にオーダーをする。互いに最初の一杯目は必ずビールを飲むのを知ってのことだった。男と一緒にいてもこのスマートさなのだから、デートする女性はさぞ心地よかろう。店選びのセンスもいい。仲間と集まるときにはある程度騒げる焼肉店だとか居酒屋を、こうして男二人で飲むときはカウンター越しに刺身だとかおでんを出してくれるような、それでいて堅苦しくない店を貴広はきちんと選ぶ。
貴広の身長は180センチほどあり、スタイルがよい彼は上等なスーツをきちんと着こなす。その顔立ちはシャープではっきりしており、男から見てもいい男だ。それでいていつも陽気で、冗談も言える彼は周囲をいつも明るくしていた。そんな貴広は宗一郎にとって自分とは違う、魅力的な人間だと思わされる。
宗一郎は最初の、貴広は二杯目のビールで乾杯をして、宗一郎の軽いグレーの上着を手に取った。
「いいジャケットだな。夏用?」
「そう。これいいよ。普通のと同じような見た目だけど涼しい。形もいいし気に入ってる」
「俺も来週から夏用にしよう。この時期蒸し暑くてしんどい。」
「今年の夏もかなり暑くなるみたいな予報だしね」
「マジかよ。勘弁して欲しいな。宗、はやく温暖化を阻止する何かを発明してくれ」
貴広のだるそうな顔に宗一郎は笑った。宗一郎は、大学院の修士課程を終えて企業の研究所に勤めている。クリーンエネルギーや環境に関することは、勤務先はもちろん自分としても長年研究テーマにしてきたことだった。
「日本の夏の湿度はひどいからね」
宗一郎が言うと、貴広はごくりとそののどを鳴らしてビールを流し込んで、正面を見たまま言った。
「来年の今頃は、俺はロンドンだ」
その言葉に宗一郎は少しだけ驚く。学生時代に留学経験もある貴広は英語は十分に話せたし、総合商社勤務の彼にとって海外転勤はいずれやってくるものだった。
「ロンドン、いいんじゃない。食べ物はおいしいのかわからないけど、不便はないだろうね」
友人としばらく気軽に会えなくなることは、それほど大きな問題ではない。学生時代と違って年々会う機会は減ってきたし、それでも久しぶりに会えばいつでも最近のことも昔のことも変わらずに笑って話せる友情が確かにあったからだ。
「里穂を連れて行きたい」
今度は宗一郎のほうを向いて、しっかりとした口調で、貴広は言った。貴広の、きちんとした大人の、はっきりと整った男らしい顔。いつもふざけてばかりだった友達が、爽やかで、大企業の看板を背負って、上質なスーツが似合う男になっていた。
「里穂にきちんと自分の気持ちを伝えたいと思っている」
貴広がどういう返事を望んでいるかを、宗一郎はわかっていた。でもすぐに言えなくて、宗一郎は手元に置いたばかりのビールをもう一度口につけた。苦味がじんわりと広がっていく。
「里穂は、なんて言うかな。仕事が好きみたいだから」
穏やかに笑いながら、それでいて自分も気持ちをごまかすように宗一郎は言った。
「絶対に里穂とロンドンに行く。振り向いてもらえるように本気で努力する」
そういって、貴広は新しく頼んだビールを気持ちよく喉に通した。自信すら感じる力強い横顔。昔からそうだ。貴広は、やると決めたら絶対にやる。大学受験だって就職活動だって、自分が望む結果を手にできるように全力で取り組む。だから、彼は本当に望んで手に入らないものを知らないんだろうな、と宗一郎はたまに思う。もちろん努力できることはすばらしく、その姿勢は尊敬しているけれど。
「いいだろう?頑張っても」
どこか申し訳なさそうな顔つきで、ほんの少し悲しいまなざしで、貴広は言った。僕をそんな目で見るな、と言いそうなところを抑えながら、宗一郎は本気なんだなと思った。ついにこの日が来たんだ。あまりに貴重すぎてずっと手を出せずにいたところに、ただじっと見守るだけでいた大切なものについに手を伸ばすのか。繊細なそれは一つ間違えば壊れて二度と同じ形に戻ることがないものだとわかっているのに、それでも手を伸ばすのか。
貴弘はまっすぐな視線を宗一郎に向けていた。そのまっすぐで熱い思いは他人に止められるようなものではない。
宗一郎は「うん」としか言えないまま、わずかにぬるくなっていたビールを静かに啜った。
それから、最近の天気、ニュース、昔話。他愛ない会話をして2時間ほど飲んで別れた。
また近いうちに会おう。ロンドンに行く前に高校時代のテニス部のメンバーたちとも集まろうと話をした。
貴広と別れた宗一郎は一人になって、電車に乗り、家に向かう。
話をしていた時間が多かったとはいえ、それなりにビールも日本酒も飲んだつもりなのに全然酔っていなかった。飲み足りなかったか。家に帰って飲みなおそう、と思って、電車を降りるといくらか涼しくなった夜の帰り道を宗一郎は一人歩いた。
急ぐ必要はない。別に待っていてくれる人なんていないのだから。待っていて欲しいと思うほどの人もいない…というのは嘘だろうか。
ふと宗一郎の頭に里穂の顔が浮かぶ。
それでも一人で自分の思った道を進むのはこんなに気楽だ。
「里穂は、なんて言うのかな」
どこか遠い夜空を見ながら、誰にも聞こえない声で、宗一郎はぽつりと言った。