情熱の続き
予定通りの昼、軽井沢を出た。
じゃあまた近いうちに、今度私たちが遊びに行くわねと言って駅で見送ってもらうとき、母が元気でねと言って里穂を抱きしめてくれた。日本人だってそう、お別れのときにハグをすることはあるのだ。
でも違った。宗一郎がしてくれたのは、そういうのではなかった。もっと熱くて、強くて、情熱的で、その感触の余韻は、忘れようと思っても簡単に忘れられるものではなかった。
きっと、宗一郎にとっても同じように大切な思い出だったと、意味のあることだったのだと、言って欲しかったのだ。
それでも、あの抱擁の意味は、宗一郎が「ただの挨拶」だと言うのなら、それより他にない。それがわからないより、わかってよかった。ちょっとすっきりできていた。
東京駅に戻る新幹線のなかでもまた、そんなことを里穂は考えてしまう。
新幹線の中でも仕事をしていた貴広は、本当は忙しかったようだった。それでも、里穂とともに帰国し、その実家でも過ごしてくれた彼は間違いなく、いい夫だった。隣人の真弓しかり、ロンドンでも貴広はそう言われる。この結婚が間違いのはずがなかった。
「里穂」
新幹線が高崎を過ぎたところでパソコンを確認した貴広が言った。
「この後、一度本社に行かないといけなくなった。だから悪いけど夜に空港で待ち合せでいいか?」
申し訳なさそうに彼が言うのは、本当はどこか都内の眺めのいい場所で軽食を食べてから空港に行こうと言っていたからだ。でもそんなのは大したことではない。予約していたわけでなかったし、行こうと思えば一人で行くこともできる。
「大丈夫よ。一人で遊んでいられるから」
里穂の笑顔に安心した貴広は、いい子いい子、と頭をなでた。
「知らない人についてっちゃだめだからな。食べ物もらっても食べるなよ」
貴広の冗談がおかしくて、里穂は思わず声を出して笑ってしまった。一緒にいて、こんなに笑わせてくれる。やっぱり、貴広と一緒にいることが間違いのはずがない。里穂は強くそう思った。
東京駅で貴広と別れて、じゃあまた後でと言って里穂は地下鉄に乗り換えて数駅のところで降りた。ここには立派な図書館がある。平日夜は遅くまで開館しているので、里穂は仕事帰りに利用することもあった。今日はただ、本を読むことよりも、その懐かしい雰囲気を感じたいだけだった。
館内に入って、里穂は東京で仕事をしていた日々を思い出す。本好きで出版社に就職したほどだったし、退職するまでの五年間の間に、いくらか編集者として携わらせてもらった書籍もある。
ちょっとした好奇心で、自分が仕事させてもらった本を探すと、思いのほか簡単に見つかった。あまり貸し出しされることがないのかと思うと、少し情けない気持ちもなくないが、手に取って、一つ一つを思い出す。
絵本作家の先生とのやりとり、上司からのダメ出し、先輩からたくさん助けてもらって作り上げた一冊だった。奥付には、編集者として里穂の名前があった。山内里穂。結婚する前の名前だった。今はもう、貴広と同じ苗字になったけど、やっぱりまだ自分はこの名前がしっくり来てしまう。新しい誰かのような斎藤里穂という名前にもいつか慣れていくのだろうか。
里穂は静かに手にとった本を棚の元あった場所に戻した。手放していく。変わっていく。それでもこうして残るものもあるのだ。
宗一郎と分かち合った一つ一つも貴重な思い出として胸に残るに違いない。
そう思って、里穂は図書館を出た。時間に余裕はあるが、早めに空港に行ってしまってもいいだろう。トラブルがないとは言い切れない。
そう、わかっているのに。
どうしてだろう。宗一郎に連絡をしてしまったのは。
じゃあまた近いうちに、今度私たちが遊びに行くわねと言って駅で見送ってもらうとき、母が元気でねと言って里穂を抱きしめてくれた。日本人だってそう、お別れのときにハグをすることはあるのだ。
でも違った。宗一郎がしてくれたのは、そういうのではなかった。もっと熱くて、強くて、情熱的で、その感触の余韻は、忘れようと思っても簡単に忘れられるものではなかった。
きっと、宗一郎にとっても同じように大切な思い出だったと、意味のあることだったのだと、言って欲しかったのだ。
それでも、あの抱擁の意味は、宗一郎が「ただの挨拶」だと言うのなら、それより他にない。それがわからないより、わかってよかった。ちょっとすっきりできていた。
東京駅に戻る新幹線のなかでもまた、そんなことを里穂は考えてしまう。
新幹線の中でも仕事をしていた貴広は、本当は忙しかったようだった。それでも、里穂とともに帰国し、その実家でも過ごしてくれた彼は間違いなく、いい夫だった。隣人の真弓しかり、ロンドンでも貴広はそう言われる。この結婚が間違いのはずがなかった。
「里穂」
新幹線が高崎を過ぎたところでパソコンを確認した貴広が言った。
「この後、一度本社に行かないといけなくなった。だから悪いけど夜に空港で待ち合せでいいか?」
申し訳なさそうに彼が言うのは、本当はどこか都内の眺めのいい場所で軽食を食べてから空港に行こうと言っていたからだ。でもそんなのは大したことではない。予約していたわけでなかったし、行こうと思えば一人で行くこともできる。
「大丈夫よ。一人で遊んでいられるから」
里穂の笑顔に安心した貴広は、いい子いい子、と頭をなでた。
「知らない人についてっちゃだめだからな。食べ物もらっても食べるなよ」
貴広の冗談がおかしくて、里穂は思わず声を出して笑ってしまった。一緒にいて、こんなに笑わせてくれる。やっぱり、貴広と一緒にいることが間違いのはずがない。里穂は強くそう思った。
東京駅で貴広と別れて、じゃあまた後でと言って里穂は地下鉄に乗り換えて数駅のところで降りた。ここには立派な図書館がある。平日夜は遅くまで開館しているので、里穂は仕事帰りに利用することもあった。今日はただ、本を読むことよりも、その懐かしい雰囲気を感じたいだけだった。
館内に入って、里穂は東京で仕事をしていた日々を思い出す。本好きで出版社に就職したほどだったし、退職するまでの五年間の間に、いくらか編集者として携わらせてもらった書籍もある。
ちょっとした好奇心で、自分が仕事させてもらった本を探すと、思いのほか簡単に見つかった。あまり貸し出しされることがないのかと思うと、少し情けない気持ちもなくないが、手に取って、一つ一つを思い出す。
絵本作家の先生とのやりとり、上司からのダメ出し、先輩からたくさん助けてもらって作り上げた一冊だった。奥付には、編集者として里穂の名前があった。山内里穂。結婚する前の名前だった。今はもう、貴広と同じ苗字になったけど、やっぱりまだ自分はこの名前がしっくり来てしまう。新しい誰かのような斎藤里穂という名前にもいつか慣れていくのだろうか。
里穂は静かに手にとった本を棚の元あった場所に戻した。手放していく。変わっていく。それでもこうして残るものもあるのだ。
宗一郎と分かち合った一つ一つも貴重な思い出として胸に残るに違いない。
そう思って、里穂は図書館を出た。時間に余裕はあるが、早めに空港に行ってしまってもいいだろう。トラブルがないとは言い切れない。
そう、わかっているのに。
どうしてだろう。宗一郎に連絡をしてしまったのは。