情熱の続き
薄暗い窓の外の景色を横目に宗一郎は誰にもわからないように控えめにあくびをしながらパソコンに向かっていた。
研究職というと白衣を着て試験管をいじっていそうなイメージがあると結衣は言ったが、仕事内容にもよるし、スーツを着て出かけるときもあるしパソコンで事務作業だって当然あると宗一郎は言った。
おもしろい返しなど何一つできない自分の何が楽しくて彼女は連絡を寄越すのだろうと思いながら、今日も誘われていた。残業にならなかったらでいいので夕食を一緒に食べたい、と。
「残業、しなくてもいいし、してもいいしという状況でしょうか」
帰らないんですか?というアシスタントのスタッフに聞かれて宗一郎は答えた。
いずれにせよ連絡はすべきだ。嘘をついて断るのは宗一郎の良心が痛むので、行かないとなれば残業をして帰ろうと思ったのだ。
スマートフォンを取り出して結衣にメッセージを送ろうとすると、1通のメッセージが来ていたことに気づく。送信主は里穂だった。
「宗の家の近くの図書館に行ってきて、もう少しだけこの辺りにいる予定。今夜、ロンドンに発つけど最後に少し会えたらと思って」
メッセージを読んだ宗一郎は胸が騒ぐのを抑えながらすぐに時刻を確認する。
メッセージが来たのはほんの二十分ほど前だった。職場から自宅はそれほど遠くないが、里穂のフライトの時間が何時なのかわからない。そのことも考えれば、会えるかどうかわからなかった。
もとより、会う必要はないはずだった。結婚した里穂と会って、何もできないのに、きちんと笑顔で見送ることができないのなら、会わないほうがいいとさえ思っていた。
数日前に、桃子と一緒に、タクシーに乗る貴広と里穂をきちんと笑顔で見送った。あのとき、きちんと別れられた。学生時代からの懐かしい仲の良いメンバーとして会って、必ずまた笑顔で再会できる別れ方だった。それなのに。
宗一郎はスマートフォンで一つメッセージを送信すると、パソコンを急いで閉じて足早に職場を出た。
愚かな自分と思いながら。駅に向かう足の速度はいつもよりもずっと早い。乗り換えに便利な車両をきちんと選んで、目的地に急ぐ。
電車の窓に映る自分を見つめる。本当に愚かだと思いながら。
「里穂が、あきらめつかないでしょう?宗が誰かのものになってくれないと」
いつだったかの桃子の言葉が宗一郎の脳裏に浮かぶ。
違う、あきらめがつかないのは。
電車を降りて改札を出たところには里穂がいた。数日前と変わらない、言ってしまえば一年前とも変わらない姿で、初めて会ったときと変わらない笑顔で、宗一郎を待っていた。手を振って、甘く柔らかく、少しも媚びない笑顔で。
「どうして、あきらめさせてくれないんだ?」
誰にも聞こえない程度の声で宗一郎は言った。どうして、連絡を寄越す?会おうと言ってくる?どうして僕をそんな目で見る?
「宗。よかった、会えて」
宗一郎が近づくなり里穂は言う。まっさらな笑顔。里穂の言葉は、とても澄んでいた。その言葉はお世辞や気遣いのない、子どもの言葉と同じ響きをしていた。
「フライトは何時?」
「深夜二時頃。だからまだ余裕はあるの」
「貴広は?」
「空港で直接待ち合わせしてるわ。だから大丈夫よ」
それ以上を里穂は言わなかった。
大丈夫と言われることの意味を勘ぐってしまいそうだが、もとより駅構内で友人同士で並んで立ち話をしている姿なんて、どうってことないことのはずだった。
「忙しいのに、ごめんね」
里穂が言った。宗一郎は慌てて我に返り、首を横に振った。
「そんなに忙しくないよ」
「でも大学院にも行くんでしょう?」
「手続きなんかは終わってるし、今は本当に大丈夫」
宗一郎が軽く笑って言うと里穂が安心したように言った。
「じゃあ、またメールをくれる?」
里穂の、無邪気な笑顔。すごくかわいらしくて、魅力的で、思わず触れたい衝動に駆られるのに、決して手を出せない、あまりにも尊い、至純な微笑み。ただ見つめるしかできなかった。
「ロンドンに行ってから、宗ったら全然連絡してくれないんだもの。寂しかったわ。でも、考えてみたら、今までだって特別なやりとりをしていたわけじゃなかったしね。話すことなんてないのかもしれないけれど。」
里穂の言葉に宗一郎は口をつぐむ。振り返ってみれば里穂と会うとき、いつも他愛ない会話ばかりだった。里穂が宗一郎の家を訪れるようになったきっかけは、彼女の職場が偶然にも近かったからというだけだった。アクシデントで電車が動かなくなって、朝まで過ごせる場所を探していたときだった。それからたまに里穂が宗一郎のマンションを訪れるようになっても、話すのは他愛ない話ばかり。それでもちまちまとお酒とピクルスを摘みながら、里穂があくびをするまで話は続いた。些細なことばかりだった。でもとても貴重だった。
「メールを、くれる?」
目の前にいる里穂が再び言った。笑顔で、でも、とても寂しそうに見えた。
本当は抱きしめたかった。そんな顔は見たくなかったから。でも宗一郎の理性はそれを抑えて、やっとの想いで宗一郎が言う。
「メールをするよ。つまらない内容かもしれないけれど」
本当はメールに何を書いたらいいのかわからない。けれどどうにか宗一郎が言葉にすると里穂は安堵したように微笑んで言った。
「ありがとう」
そして里穂はすぐに俯いた。
「私、宗が、とても大切なの。貴弘とも桃子も大切だけど、宗の言葉とか、宗と話をしていると、すごく安心できる。」
里穂は言葉を手繰り寄せるようにして、一つ一つを丁寧に言った。
宗一郎はその言葉にとても納得できて、それは自分たちがもっと幼かったなら、「好き」という一言を使っていたはずだった。でもそんな言葉だけで片付けられないほどの時間を過ごしてきて、多くの感情を知っていた。互いに失いたくない大事なものをたくさん手にしてしまっていた。
「約束よ。メールをちょうだいね」
里穂は言って、それだけ聞ければ安心というような顔を見せて改札に向かって歩き出そうかとしたときだった。
里穂は突如踵を返して、宗一郎を抱きしめた。予想しない彼女からの抱擁に宗一郎はただ驚いてしまう。彼女の精一杯の力が込められた腕の感触はコート越しでも十分に伝わってくる。里穂のその体の感じは一年前の記憶と重なる。まるで鋳型をとるのかというほどしっかりと体に刻み込んだから。
宗一郎の体からゆっくりと自分の体をはがすと里穂は微笑んで言った。どこか切なくも見える笑顔で。
「ただの挨拶よ」
嘘だ。そんな風に抱きしめられて、挨拶で済むはずがない。そのとき宗一郎は自分がとても残酷なことをしてしまっていたのだと気づかされる。
一年前、里穂を抱きしめてしまったことを、今更ながら後悔する。抱きしめる予定はなかった。ただ目の前にいた彼女がもう他の男のものになって、これまでのように顔を合わせることができなくなってしまって、どうしても最初で最後に触れたくて、別れ際に、そうしてしまった。でもあの一瞬は大罪だったのだ。
「じゃあまたね」
里穂が宗一郎に背を向けて改札に向かおうとしたときだった。宗一郎は里穂の手を取って言った。
「里穂のことは、僕も大切に想っている」
だから元気でと、それだけ言うと、里穂はまた微笑んだ。満たされた顔だった。
「またメールをするわ。返事をちょうだいね」
里穂の言葉に宗一郎は静かにうんとだけ言って、改札で別れた。里穂は手を振って、エスカレーターが上ってその顔が見えなくなるまで、振り返って、宗一郎を見ていた。宗一郎も小さく手を振って返して、里穂を見送った。
駅構内はこれから電車に乗る人や降りてきたばかりの人、乗り換えの人などで大勢の人であふれていた。宗一郎は東京の人込みも満員電車も嫌いだった。でも今は、その中に自分たちが紛れられることがありがたかった。
「あきらめきれないのは僕なんだ」
一人残された駅で宗一郎はつぶやいた。独り言は、雑踏の中ですぐにかき消された。
その夜宗一郎は一つ嘘をついた。
「連絡できずごめんなさい。残業でした。今度埋め合わせします」
メッセージの送信先にいる結衣は疑うことなく、次の約束を心待ちにしているという内容の返事をしてきた。宗一郎は、本当に自分のどこがよくて連絡をしてくれるのだろうと思う。一人きりになると里穂の輪郭、骨格、そのラインすべてをもう一度思い出して、いつだったか里穂と一緒に食べた小さなきゅうりのピクルスをつまみながら、東京の夜空を眺めていた。雲一つない星空。飛行機は、順調に空を飛ぶだろう、と。
研究職というと白衣を着て試験管をいじっていそうなイメージがあると結衣は言ったが、仕事内容にもよるし、スーツを着て出かけるときもあるしパソコンで事務作業だって当然あると宗一郎は言った。
おもしろい返しなど何一つできない自分の何が楽しくて彼女は連絡を寄越すのだろうと思いながら、今日も誘われていた。残業にならなかったらでいいので夕食を一緒に食べたい、と。
「残業、しなくてもいいし、してもいいしという状況でしょうか」
帰らないんですか?というアシスタントのスタッフに聞かれて宗一郎は答えた。
いずれにせよ連絡はすべきだ。嘘をついて断るのは宗一郎の良心が痛むので、行かないとなれば残業をして帰ろうと思ったのだ。
スマートフォンを取り出して結衣にメッセージを送ろうとすると、1通のメッセージが来ていたことに気づく。送信主は里穂だった。
「宗の家の近くの図書館に行ってきて、もう少しだけこの辺りにいる予定。今夜、ロンドンに発つけど最後に少し会えたらと思って」
メッセージを読んだ宗一郎は胸が騒ぐのを抑えながらすぐに時刻を確認する。
メッセージが来たのはほんの二十分ほど前だった。職場から自宅はそれほど遠くないが、里穂のフライトの時間が何時なのかわからない。そのことも考えれば、会えるかどうかわからなかった。
もとより、会う必要はないはずだった。結婚した里穂と会って、何もできないのに、きちんと笑顔で見送ることができないのなら、会わないほうがいいとさえ思っていた。
数日前に、桃子と一緒に、タクシーに乗る貴広と里穂をきちんと笑顔で見送った。あのとき、きちんと別れられた。学生時代からの懐かしい仲の良いメンバーとして会って、必ずまた笑顔で再会できる別れ方だった。それなのに。
宗一郎はスマートフォンで一つメッセージを送信すると、パソコンを急いで閉じて足早に職場を出た。
愚かな自分と思いながら。駅に向かう足の速度はいつもよりもずっと早い。乗り換えに便利な車両をきちんと選んで、目的地に急ぐ。
電車の窓に映る自分を見つめる。本当に愚かだと思いながら。
「里穂が、あきらめつかないでしょう?宗が誰かのものになってくれないと」
いつだったかの桃子の言葉が宗一郎の脳裏に浮かぶ。
違う、あきらめがつかないのは。
電車を降りて改札を出たところには里穂がいた。数日前と変わらない、言ってしまえば一年前とも変わらない姿で、初めて会ったときと変わらない笑顔で、宗一郎を待っていた。手を振って、甘く柔らかく、少しも媚びない笑顔で。
「どうして、あきらめさせてくれないんだ?」
誰にも聞こえない程度の声で宗一郎は言った。どうして、連絡を寄越す?会おうと言ってくる?どうして僕をそんな目で見る?
「宗。よかった、会えて」
宗一郎が近づくなり里穂は言う。まっさらな笑顔。里穂の言葉は、とても澄んでいた。その言葉はお世辞や気遣いのない、子どもの言葉と同じ響きをしていた。
「フライトは何時?」
「深夜二時頃。だからまだ余裕はあるの」
「貴広は?」
「空港で直接待ち合わせしてるわ。だから大丈夫よ」
それ以上を里穂は言わなかった。
大丈夫と言われることの意味を勘ぐってしまいそうだが、もとより駅構内で友人同士で並んで立ち話をしている姿なんて、どうってことないことのはずだった。
「忙しいのに、ごめんね」
里穂が言った。宗一郎は慌てて我に返り、首を横に振った。
「そんなに忙しくないよ」
「でも大学院にも行くんでしょう?」
「手続きなんかは終わってるし、今は本当に大丈夫」
宗一郎が軽く笑って言うと里穂が安心したように言った。
「じゃあ、またメールをくれる?」
里穂の、無邪気な笑顔。すごくかわいらしくて、魅力的で、思わず触れたい衝動に駆られるのに、決して手を出せない、あまりにも尊い、至純な微笑み。ただ見つめるしかできなかった。
「ロンドンに行ってから、宗ったら全然連絡してくれないんだもの。寂しかったわ。でも、考えてみたら、今までだって特別なやりとりをしていたわけじゃなかったしね。話すことなんてないのかもしれないけれど。」
里穂の言葉に宗一郎は口をつぐむ。振り返ってみれば里穂と会うとき、いつも他愛ない会話ばかりだった。里穂が宗一郎の家を訪れるようになったきっかけは、彼女の職場が偶然にも近かったからというだけだった。アクシデントで電車が動かなくなって、朝まで過ごせる場所を探していたときだった。それからたまに里穂が宗一郎のマンションを訪れるようになっても、話すのは他愛ない話ばかり。それでもちまちまとお酒とピクルスを摘みながら、里穂があくびをするまで話は続いた。些細なことばかりだった。でもとても貴重だった。
「メールを、くれる?」
目の前にいる里穂が再び言った。笑顔で、でも、とても寂しそうに見えた。
本当は抱きしめたかった。そんな顔は見たくなかったから。でも宗一郎の理性はそれを抑えて、やっとの想いで宗一郎が言う。
「メールをするよ。つまらない内容かもしれないけれど」
本当はメールに何を書いたらいいのかわからない。けれどどうにか宗一郎が言葉にすると里穂は安堵したように微笑んで言った。
「ありがとう」
そして里穂はすぐに俯いた。
「私、宗が、とても大切なの。貴弘とも桃子も大切だけど、宗の言葉とか、宗と話をしていると、すごく安心できる。」
里穂は言葉を手繰り寄せるようにして、一つ一つを丁寧に言った。
宗一郎はその言葉にとても納得できて、それは自分たちがもっと幼かったなら、「好き」という一言を使っていたはずだった。でもそんな言葉だけで片付けられないほどの時間を過ごしてきて、多くの感情を知っていた。互いに失いたくない大事なものをたくさん手にしてしまっていた。
「約束よ。メールをちょうだいね」
里穂は言って、それだけ聞ければ安心というような顔を見せて改札に向かって歩き出そうかとしたときだった。
里穂は突如踵を返して、宗一郎を抱きしめた。予想しない彼女からの抱擁に宗一郎はただ驚いてしまう。彼女の精一杯の力が込められた腕の感触はコート越しでも十分に伝わってくる。里穂のその体の感じは一年前の記憶と重なる。まるで鋳型をとるのかというほどしっかりと体に刻み込んだから。
宗一郎の体からゆっくりと自分の体をはがすと里穂は微笑んで言った。どこか切なくも見える笑顔で。
「ただの挨拶よ」
嘘だ。そんな風に抱きしめられて、挨拶で済むはずがない。そのとき宗一郎は自分がとても残酷なことをしてしまっていたのだと気づかされる。
一年前、里穂を抱きしめてしまったことを、今更ながら後悔する。抱きしめる予定はなかった。ただ目の前にいた彼女がもう他の男のものになって、これまでのように顔を合わせることができなくなってしまって、どうしても最初で最後に触れたくて、別れ際に、そうしてしまった。でもあの一瞬は大罪だったのだ。
「じゃあまたね」
里穂が宗一郎に背を向けて改札に向かおうとしたときだった。宗一郎は里穂の手を取って言った。
「里穂のことは、僕も大切に想っている」
だから元気でと、それだけ言うと、里穂はまた微笑んだ。満たされた顔だった。
「またメールをするわ。返事をちょうだいね」
里穂の言葉に宗一郎は静かにうんとだけ言って、改札で別れた。里穂は手を振って、エスカレーターが上ってその顔が見えなくなるまで、振り返って、宗一郎を見ていた。宗一郎も小さく手を振って返して、里穂を見送った。
駅構内はこれから電車に乗る人や降りてきたばかりの人、乗り換えの人などで大勢の人であふれていた。宗一郎は東京の人込みも満員電車も嫌いだった。でも今は、その中に自分たちが紛れられることがありがたかった。
「あきらめきれないのは僕なんだ」
一人残された駅で宗一郎はつぶやいた。独り言は、雑踏の中ですぐにかき消された。
その夜宗一郎は一つ嘘をついた。
「連絡できずごめんなさい。残業でした。今度埋め合わせします」
メッセージの送信先にいる結衣は疑うことなく、次の約束を心待ちにしているという内容の返事をしてきた。宗一郎は、本当に自分のどこがよくて連絡をしてくれるのだろうと思う。一人きりになると里穂の輪郭、骨格、そのラインすべてをもう一度思い出して、いつだったか里穂と一緒に食べた小さなきゅうりのピクルスをつまみながら、東京の夜空を眺めていた。雲一つない星空。飛行機は、順調に空を飛ぶだろう、と。