情熱の続き
貴広と里穂がロンドンに戻ってから二回目の日曜日の夜だった。

里穂がバスルーム出てくると貴広は電話をしているようだった。何用かはわからなかったが日本語で、飾らない様子で話していた。里穂は気遣ってなるべく音をたてないようにキッチンへ行って冷蔵庫から水を出して飲んでいると、やがて会話は終わったようだったので話しかけてみる。

「誰と話していたの?」
「うちの親。」

日本は午後、電話をするにもちょうどよい時間だった。

「ほら、この間、里穂のご両親がロンドンに遊びに来たいって言っていただろう?そのとき、うちの両親も呼んで、タイミングが合えば、どこかで挙式をできたらいいなと思って。予定を聞いていたんだ」
「挙式を、本当にするの?」

挙式という言葉に里穂は顔をしかめる。

「なんで?結婚するときにそう話していたじゃん。せっかくだし海外で写真くらい残せたらって。里穂のドレス姿は絶対きれいだし、うちの親も見たがってたし。どうせなら写真だけじゃなく両親たちくらいは集めてもいいんじゃないかなって」
「その時はそんな話もあったけれど、今は挙式をしたい気分になれないわ」
「でも一年後とか、その頃には気持ちも変わってるかもよ。挙式が終わったら子どもについても考えたいし」

子ども、と言われて何かのスイッチが入ったように里穂が強い口調で言った。

「どうして貴広はいつも私を自分のペースに巻き込むの?子どもなんて私はまだ考えられない」

里穂の怒りの混ざった訴えに貴広は困惑する。

「考えたい、っていう話だよ。一緒にね」

穏やかに微笑んで貴広が言う。

「違うわ。いつだって貴広は自分のペース。そこに私を無理やり巻き込む。私の気持ちなんておかまいなしで。」

里穂の強い口調に困ったように微笑みながら一つため息をつく。

「そういうつもりじゃない。話し合いたい、一緒に考えたいっていうことだって」
「違う。私の気持ちを考えてくれていない。私はまだ親になる自信なんてないわ」
「里穂に無理強いするつもりはない。落ち着いて。俺はできればいたらいつか欲しいと思うけど、子どもを持たない選択肢だってある。そのことを一緒に考えたいと思ったらいけないのか?」
「嘘よ。貴広はいつだって自分の気持ちが一番大切じゃない。結婚だって、私の気持ちをどれだけ考えたの?私が東京で仕事をしていた毎日を、なんだと思っていたの。私はたくさんのものを手放したわ」

堰を切ったように里穂の口から言葉が出てくる。同時に涙も止まらなかった。こんなことは貴広と出会って以来、初めてのことだった。

その様子に貴広は落ち着いてと言って里穂の両手を掴んで抱きしめようとするが、抵抗した里穂が何度も貴広の胸を叩いた。子どもみたいだと思って、悔しくなって里穂はまた泣いた。泣いている顔を見られたくなくて、貴広のシャツに顔を押し付けると、彼は里穂を抱きしめた。自分が悪かったと、落ち着いてを何度も言って。

里穂はしばらく顔を上げられなかった。あまりきれいでない泣き顔を見られたくなかったからだけでなくて、たぶん、貴広が傷ついた顔をしていたはずだったから。傷つけたかったわけでないのに。謝ってほしかったわけではないのに。こんなのはただの八つ当たりだ。

結婚前に、貴広が里穂のキャリアを考えてくれていたことはわかっていた。彼は自分が想いを告げたことで里穂を悩ませてしまったことを謝ってくれた。それでも里穂を好きだという彼の想いを受け入れたのは里穂自身のはずだったのに。

「挙式もその先のことも、里穂が話をしたくなっときにしよう。いつでも大丈夫だから」

大丈夫、大丈夫と貴広は言って、里穂の頭を何度もなでた。その仕草がとても悲しかった。

勝手なのはどっちだと怒って、呆れて、私を嫌いになってくれたらいいのに。

里穂は貴広の腕の中で泣きながら、そう思った。
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