情熱の続き

「高橋さーん、こっちの書類って処分しちゃって大丈夫ですか?」

オフィスの一角で自分の名前を呼ばれたことに気づいた桃子は慌てて「お願いします」と返事をする。

同じ職場の先輩と結婚した桃子は、名字こそ夫と同じになったが、仕事のしやすさを理由に職場では旧姓のままで仕事をしていた。取引先に「結婚して名字が変わりました」なんてわざわざ説明したくないという人も多く、こういう人は案外いる。

いっそ名前で呼んでもらったほうがわかりやすいのにと思いながら、桃子は書類の片づけをしてると「桃子さん」と名前を呼ばれた。
顔を上げると、そこにいたのは結衣だった。

「これ、回ってきたんですけど、意味わかります?」

ぺらっと差し出された書類には面倒くさい事項がいくらか記載されている。

「あー、大丈夫よ。もらっちゃうわ」
「すみません。教えていただければ私も処理できると思うので」
「うん、じゃあ今度お願いするわね」

桃子がよき先輩らしく言うと、結衣は頭を下げた。彼女は、まだ入社三年目だから一人前とは言い難いが、一生懸命仕事をやろうとするのでとても好感度が高い。桃子が結衣を宗一郎に紹介しようと思ったのも、彼女が魅力的だったからだ。

「宗とどうなった?」

紹介した立場である桃子は時折こうして結衣を気に掛ける。恋愛の話がまだ楽しい年ごろの若い彼女は、まるで聞いて欲しかったというように話し始める。

「このあいだ誘ったんですけど、残業だったみたいで断られちゃいました。忙しいんですかね。」

その言葉に、桃子はほんの二週間ほど前、里穂と貴広と四人で会ったことを思い出していた。そのとき彼は今は特別忙しい時期ではないと話していたので、ふと気になった。

「このあいだって、いつぐらい?」
「えーと、先週の水曜日ですね。でも埋め合わせするって言ってくれたので、期待しています。」

無邪気に笑う結衣とは真逆に、桃子は怪訝な顔をしてカレンダーを見る。
先週の水曜日。里穂と貴広がロンドンに戻った日だ。正確には日付を超えた深夜のフライトだったはずだが、水曜日の夜に里穂たちが何をしていたかまでは聞いていない。

そのとき桃子は、ほとんど祈りみたいな気持ちが込みあげてくるのがわかった。
自分の知らないところで、何かのバランスが崩れてしまうようなことが起こっていませんように、と。

「進展があったら教えて。」

桃子の言葉に、もちろんですと結衣が笑った。疑うことを知らないような、無垢な笑顔で。

その日、定時で帰宅した桃子は夕食の準備がひと段落したところでソファに腰かけた。
海が見えるこの場所からの眺めはとても気に入っているので、自宅マンションから外を見るだけでも心は満たされる。
三月も半ばを過ぎて陽は長くなってきていた昼と夜が同じ長さになりつつある。移り変わっていく。また新しい春が来るのだ。

スマートフォンを眺めて、里穂とのメッセージのやりとりを見直してみる。
無事にロンドンに着いたことと、日本ではありがとうと、楽しかった。それから変わらずに会えて嬉しかった。またみんなで会おうねと。
ごく普通のようだった。しかし、‘またみんなで’という一言は、大きな意味を持っているのだろうか。

2週間ほど前のこと。四人で食事をしていて、貴広が話をしているときの、里穂の視線。そのまなざし。まるで一瞬でも見逃したくないというように、静かに、でも確かに情熱を持って宗一郎を見ていた。

「里穂が、あきらめつかないでしょう。」

いつだったか宗一郎に言った言葉を、桃子はもう一度繰り返しつぶやいてみる。別れ際。里穂に手を振る宗一郎の横顔も、今までと変わらないはずなのに、引き留めたい気持ちを抑えているみたいに見えた。

「宗も、ね」

おそらく、そういうことだ、と桃子は思った。
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