情熱の続き
月曜日の朝、宗一郎が目を覚ますと一通のメールが来ていた。
「桃子から紹介された子とは、どうなったの?」
週の始まりにこのようなメールはあまり読みたくないと思いながら、宗一郎はとりあえず職場に行く支度をする。顔を洗って歯を磨く。朝食は取らない。男の一人暮らしなんてこんなものだ。それでもきちんとしていそうに見られるのは、喜ばしいことなのか。それとも、自分を理解してもらっていないと思うべきなのか。
鏡越しにもう一度、顔、髪型と一通り確認して家を出た。
鍵をかけ忘れないように気を付けるくらいのもので、相変わらずの一人暮らしは気楽で自由。寂しくは、ない。
電車を待つ駅のホームで、宗一郎はスマートフォンを取り出してもう一度メールを読む。
里穂は、本当は何を聞きたいのだろうと思いながら。
「宗くんは、否定も肯定もしないのね」
そう言われて宗一郎は慌てて料理から視線を目の前の女性に向ける。
否定も肯定もしないというのは、いつだったか里穂に言われた言葉だった。宗のやさしいところと言って、自分を尊重してくれた里穂のやわらかな笑顔を思い出すと、宗一郎はとたんに胸が締め付けられるような気がする。驚いた素振りを決して見せないようにしたまま結衣の顔を見た。
先日の誘いを断ったお詫びとして夕食をともにしていた。彼女のセレクトした品川のイタリアンは飾りすぎておらず、とてもいい雰囲気だった。
「ごめん、なかなかいい言葉が出てこなくて」
宗一郎が言うと結衣は笑った。
「ううん、私のほうこそごめんなさい。私の仕事の話されても、ね」
「いや、そうじゃないんだけど」
首をかしげる結衣に宗一郎はなんとか言葉を探す。
「あんまり、コミュニケーションが上手なほうじゃないから」
里穂が、よくそう言った。誰とでも仲良くなるのは難しい。どういう話をしたらいいのかわからない。安心して胸の内を離せる人が少しいるだけ、でも自分はそれで満足している、と。里穂ほどではないが、里穂の言いたいこと、人との付き合い方は理解できるところがあった。
そのとき結衣は微笑んだ。
「言葉にするのが上手な人もそうでない人もいるし、思ってることが顔に出ちゃう人とか何考えているのかわからない人、それから話をするのが好きな人も、聞くのが好きな人いるし、いろんな人がいるから。ただ私は今、宗くんが自分のことを話してくれて嬉しいだけ。知りたい、と思う気持ちを持っていてもいいでしょう?」
それは宗一郎にとって思いがけない返しだった。つまらない男だと思ってもらって構わないと思ったのに、彼女の言葉に拍子抜けした宗一郎はつい目を丸くした。
彼女は企業の人事部に配属されるくらいだから、そうやっていろんな人をたくさん見て、上手にコミュニケーションをとっているのだろう。口には出さなかったが、宗一郎はそう思った。
「なかなかおもしろい話ができなくて悪いね」
宗一郎の本心だった。楽しい話題を振れるわけでもなく、相談相手になれるほど人生経験が豊富でも知識の引き出しがあるわけでもない。そして同じ気持ちを分かち合えるほど自分たちが似ていないこともわかっていた。
結衣は宗一郎がどうしてそんなことを言うのだろうというように少しだけ首をかしげて笑った。ただただ一緒にいられるだけで嬉しいと言うように。
「このあと散歩しましょうよ。せっかく暖かくなってきたし」
その笑顔につられるように宗一郎も控えめに笑って、首を縦に振った。
少し歩いたところにある港区の公園からは東京タワーがちょうどよく見える。東京のシンボルと言えばこれ、と結衣は笑う。
「宗くん、4月に入っても、たまには会ってね。忙しくなるかもしれないけど」
歩きながら結衣が言った。
宗一郎は、時間があるときに声をかけるよ、と言った。逃げていると言われれば、そうかもしれない。その気があればもっと前向きな返事をするはずだ。でもこうして一緒にいて、嫌な気持ちはなかった。ただ、里穂と過ごした時ほどの気楽さは当然ない。十年近く友人でいた里穂と比べること自体、無意味だ。わかっている。でも今はまだ比べてしまう。
そんな宗一郎の胸中をわかっているのかわかっていないのか、結衣が唐突に言った。
「あのあたり、桃子さんのおうち。」
高層マンションが並ぶ一角を結衣が指さす。立派なビルがいくつも並ぶ東京ベイエリア。30年ローンで買ったのよ、と笑って話してくれた桃子。30年後も当然夫婦ともにいるつもりで購入された家。宗一郎にとって30年後は想像できない遠い未来の世界のようだった。
「私もこういうところに住んでみたいな。毎日、眺めがよくて旅行気分で過ごせそう」
その呑気な言葉に宗一郎は思わず笑った。
「おかしい?素敵だと思うんだけど。それで、景色を見ながら朝食を食べて、夜はワインを飲んで、そういうのしたいの」
「それは楽しそうだね。」
子どもをかまうように宗一郎は笑顔で言った。その様子は嫌味でもなんでもなく、結衣はとにかく宗一郎が笑ってそういってくれたことで満足していた。
「宗くんは、ない?こういうことしたいって。東京生まれの東京育ちだから特別な眺めじゃないのかな?私、やりたいことたくさんあって。歌舞伎とかお笑いも見に行ってみたいし、東京の離島も行ってみたくて。海がきれいらしいから」
希望に満ちた顔つきで語る結衣に宗一郎はまた笑った。東京で生まれ育っても歌舞伎もお笑いも見に行ったことはなかったし、東京の離島に行こうと思ったこともなかったからだ。
基本的に彼女は興味の範囲が広く、積極的で行動力があるのだろう。それは自分にはないものだと宗一郎は思った。
「宗くんだって、少しくらいあるでしょう?東京でやりたいこと」
「やりたいこと、ね」
その言葉に宗一郎は東京の街を眺めながら考えてみる。
やりたいこと、やらなきゃいけないこと。
大学院、博士号、キャリア、家庭を持つこと、マイホーム。そして、誰かを好きになること。
この無数の明かりが煌めく東京の街で手にしていかなければいけないこと。
「やらないといけないことは、たくさんあるかな」
ぽつりと宗一郎は言った。独り言みたいにつぶやくその声が、結衣にはなぜだかとても悲しく聞こえた。