情熱の続き
新しい年度が始まって宗一郎からの返事は再び来なくなった。
里穂が知りたいと思ったことは、聞いてはいけないことだったのだろうか。
もっとも、返事を待っている時間は2週間ほど。会話と思えばとても長く待たされているが、コミュニケーションの頻度と思えば気にするほどでもない。東京にいた頃、一か月以上会わないことは、しょっちゅうあった。
それでも、知りたいと思う気持ちを、持つことはいけないのだろうか。
宗一郎について、その人間関係について、胸の内について、知りたいと思うことは、いけないことなのだろうかと里穂は思う。
「里穂、どうかした?」
レタスの葉を洗いつつ、蛇口の水を見つめたままだった里穂に貴広が言った。
なんでもないわ。
そう言おうとしたところで、里穂は水道のレバーを上に向けて水を止める。
「このレタス、土が多くついていて。夢中になって洗っていたの」
里穂は笑って手に持った淡い緑色の葉っぱを貴広に見せた。最近、嘘をつくことが増えている。でも、‘なんでもない’という言葉で誤魔化すことは、余計に気にさせてしまう。傷つけたいわけじゃない。
「いいよ、土がついていても。土も栄養だから」
ふざけて言う貴広に里穂は「やだ」と笑って、再び背中を向けて、水を出してレタスを洗い始めた。勢いよく流れ出る水のおかげで、レタスはもう十分にきれいだった。
こうやって一緒にいて、いつでも話ができて、笑顔を見ていても、結局互いに本心なんてわからない。子どもの頃は、違った。目の前にあること、今教えてくれることが真実だと里穂は思っていた。本当じゃないなことは、物語の中だけのはずだった。でも人は嘘をつく。自分のためにも、誰かのためにも。穏やかな日常のために。それは、なんて恐ろしいことだろう。そして、悲しいことだろう。
それでも貴広とは相変わらず一緒に眠っていた。寝る前の挨拶のキスも基本的に欠かさない。でもそれは本当にただの挨拶で、軽く唇が触れ合う程度で、その続きはなかった。
宗一郎からの返事は、それから一週間後に来た。三週間ぶりのメールだった。仕事をしていたときはあっというまの三週間でも、メールを待つ三週間はとても長い。
「桃子から紹介された子とは、どうなったの?」
その一言を送信したことは、里穂はきちんと覚えていた。どんな返事が書かれているだろうと思うと、質問した立場のくせに緊張してしまう。失礼だっただろうか、聞いて欲しくないことだっただろうか。たった一行のメールを送信したことを、ずっと気にしていた。
金曜日の午後、一人きりの時間。紅茶をわずかに口に含んでから、そっとメールにカーソルを当ててクリックする。
「たまに会っているよ。僕にないものをたくさん持っていると感じます。」
里穂はそれを読んで、ぽつりと言った。
「変なメール。」
口語と、丁寧語と色々混じっていて、おかしいと思ったのだ。その無機質な文字を眺めながら、ふふ、と里穂は笑った。本当におもしろかったわけではないけれど。
「僕にないものをたくさん持っている。」
その言葉がどういうつもりで彼が言ったかはわからない。けれど、里穂は嫌でも想像してしまう。活発で、おしゃべりが上手で、明るい笑顔を宗一郎に向ける姿。
「私とは、似ていないのね、きっと。」
自分と宗一郎が似ていることを里穂はわかっていたから、その話を聞いただけで、宗一郎が会っている女の子が自分と似ていないことは想像できた。
安堵ではない。悲しみでもない。ただ、少しずつ宗一郎が遠ざかっていく感じ。自分の知らない女の子と並んで歩くその姿を想像してみて、自分の知らない宗一郎になりつつあることに気づかされる。
仕方のないこと、わかっていること。自分が引き留められる立場にいないことも、里穂は十分にわかっていた。
それでも。
「行かないで、と言いたくなってしまうわ」
眠くなるまで続いた静かな会話。ゆっくりと、一つ、また一つと摘んで食べた小さなきゅうりのピクルス。自分に向けられた宗一郎の穏やかな笑顔。
窓の外に見える、ジョギングをしている人、自転車に乗っている人、車から降りてきた人も、みんなどこかへ行ってしまう。
風景のなかに取り残されたように、里穂はひとり冷めた紅茶を啜りながら、過ぎ去っていく人々をしばし見つめていた。
里穂が知りたいと思ったことは、聞いてはいけないことだったのだろうか。
もっとも、返事を待っている時間は2週間ほど。会話と思えばとても長く待たされているが、コミュニケーションの頻度と思えば気にするほどでもない。東京にいた頃、一か月以上会わないことは、しょっちゅうあった。
それでも、知りたいと思う気持ちを、持つことはいけないのだろうか。
宗一郎について、その人間関係について、胸の内について、知りたいと思うことは、いけないことなのだろうかと里穂は思う。
「里穂、どうかした?」
レタスの葉を洗いつつ、蛇口の水を見つめたままだった里穂に貴広が言った。
なんでもないわ。
そう言おうとしたところで、里穂は水道のレバーを上に向けて水を止める。
「このレタス、土が多くついていて。夢中になって洗っていたの」
里穂は笑って手に持った淡い緑色の葉っぱを貴広に見せた。最近、嘘をつくことが増えている。でも、‘なんでもない’という言葉で誤魔化すことは、余計に気にさせてしまう。傷つけたいわけじゃない。
「いいよ、土がついていても。土も栄養だから」
ふざけて言う貴広に里穂は「やだ」と笑って、再び背中を向けて、水を出してレタスを洗い始めた。勢いよく流れ出る水のおかげで、レタスはもう十分にきれいだった。
こうやって一緒にいて、いつでも話ができて、笑顔を見ていても、結局互いに本心なんてわからない。子どもの頃は、違った。目の前にあること、今教えてくれることが真実だと里穂は思っていた。本当じゃないなことは、物語の中だけのはずだった。でも人は嘘をつく。自分のためにも、誰かのためにも。穏やかな日常のために。それは、なんて恐ろしいことだろう。そして、悲しいことだろう。
それでも貴広とは相変わらず一緒に眠っていた。寝る前の挨拶のキスも基本的に欠かさない。でもそれは本当にただの挨拶で、軽く唇が触れ合う程度で、その続きはなかった。
宗一郎からの返事は、それから一週間後に来た。三週間ぶりのメールだった。仕事をしていたときはあっというまの三週間でも、メールを待つ三週間はとても長い。
「桃子から紹介された子とは、どうなったの?」
その一言を送信したことは、里穂はきちんと覚えていた。どんな返事が書かれているだろうと思うと、質問した立場のくせに緊張してしまう。失礼だっただろうか、聞いて欲しくないことだっただろうか。たった一行のメールを送信したことを、ずっと気にしていた。
金曜日の午後、一人きりの時間。紅茶をわずかに口に含んでから、そっとメールにカーソルを当ててクリックする。
「たまに会っているよ。僕にないものをたくさん持っていると感じます。」
里穂はそれを読んで、ぽつりと言った。
「変なメール。」
口語と、丁寧語と色々混じっていて、おかしいと思ったのだ。その無機質な文字を眺めながら、ふふ、と里穂は笑った。本当におもしろかったわけではないけれど。
「僕にないものをたくさん持っている。」
その言葉がどういうつもりで彼が言ったかはわからない。けれど、里穂は嫌でも想像してしまう。活発で、おしゃべりが上手で、明るい笑顔を宗一郎に向ける姿。
「私とは、似ていないのね、きっと。」
自分と宗一郎が似ていることを里穂はわかっていたから、その話を聞いただけで、宗一郎が会っている女の子が自分と似ていないことは想像できた。
安堵ではない。悲しみでもない。ただ、少しずつ宗一郎が遠ざかっていく感じ。自分の知らない女の子と並んで歩くその姿を想像してみて、自分の知らない宗一郎になりつつあることに気づかされる。
仕方のないこと、わかっていること。自分が引き留められる立場にいないことも、里穂は十分にわかっていた。
それでも。
「行かないで、と言いたくなってしまうわ」
眠くなるまで続いた静かな会話。ゆっくりと、一つ、また一つと摘んで食べた小さなきゅうりのピクルス。自分に向けられた宗一郎の穏やかな笑顔。
窓の外に見える、ジョギングをしている人、自転車に乗っている人、車から降りてきた人も、みんなどこかへ行ってしまう。
風景のなかに取り残されたように、里穂はひとり冷めた紅茶を啜りながら、過ぎ去っていく人々をしばし見つめていた。