情熱の続き
少し前にも貴広は同じ光景を見ていた。
スーツケースに荷物を詰める里穂の姿が家出をしようとする少女のように見える。夏用のサンダルにパンプス、薄手のカーディガンにジャケット、ワンピースとスカート。一週間の滞在にいったいどれほどの予定が詰まっているのか。聞きたい気持ちをぐっと飲みこんで貴広は静かに言う。
「お義父さんとお義母さんによろしく」
「ありがとう。貴広からって言ったら、間違いなく喜ぶわ」
日本ではあまり手に入らないスコッチウィスキー、それからロンドン限定の紅茶缶、ショートブレッドなどのお土産。これらを託すことくらいしか、一人で帰国するという里穂に貴弘ができることはなかった。
「一緒に行けなくて悪い」
申し訳なさそうに貴広が言うと、里穂はどこか清々しい雰囲気も感じさせながら笑顔をみせた。
今回の帰国にあたり、里穂は貴広に一緒に来て欲しいとは言わなかった。ただ、前回の帰省で会えなかった祖父母など、いつ会えなくなるかわからない人に会いたいと言って、少し一人で日本に行くことを申し出たのだ。貴広は、本心はどうかわからないが、快く返事をした。
「そんなの気にしないで。気持ちだけで十分よ。私こそ、一人で日本に帰らせてもらって申しわけないわ。きちんと食事をとってね。それから掃除と洗濯と」
「努力するよ」
笑いながら、貴広は目についた黒い中身が詰まった瓶を手に取る。
「くるみのピクルスなんて誰にあげるんだ?」
褐色の瓶を持った貴広がしかめっ面で言う。自分が好きではないものに対してはこんな扱いをする。
最近の日本は輸入食品の店なども増えて、海外の品物も気軽に手に入るものがかなり増えたが、このくるみのピクルスは見たことがなかった。
「桃子よ。話をしたら食べてみたいっていうから。」
もう一つの瓶を荷物にまとめながら、里穂は言う。
「両親と、あと会えたら宗にもあげようかと思って」
何気なく発した一言。宗という名前。そのとき、わずかに時間が止まる感じを里穂と貴弘が互いに味わう。こういうとき、嘘をつけばよかった、と里穂は思う。本当のことは、必ずしも必要ないのだと思うのは、貴広の表情が悲しそうに見えるからだ。
彼は、そっか、と言ってその瓶をそっと里穂に手渡した。
「夕食の準備をするわ」
瓶を荷物にまとめると里穂が立ち上がって言う。貴広がすかさず反応する。
「手伝うよ」
その言葉に里穂はありがとう、と言う。お互いに思いやりを持って支えあっている夫婦、のはずだ。それは、とても美しいことのはずだった。
気を遣いあっているだけではないとそれぞれが思いながら、二人で夕食の準備をした。
鱈とじゃがいものフライ。ローストビーフ、きゅうりのサンドイッチを並べて、ペールエールで乾杯をした。簡単ながらもロンドンらしい食事に貴広が言った。
「最後の晩餐」
「やめて、縁起でもない。」
貴広は笑って冗談として言ったつもりだが、少し試していた気持ちもなくはない。里穂が日本に行っても、またロンドンに戻ってくること。これが最後のディナーなんかじゃないことを確かめたかった。
でも飛行機での長距離の移動に何があるのかは誰もわからない。
飛行機が事故に合うとも言い切れない。何かのきっかけで日本から戻って来られなくなるとも言い切れない。いつだって今夜が最後の夜になりえるのだ。ここに戻りたくない、と思うことだって、当然。ないとは言い切れない。
里穂自身は明日から東京に戻ることを想像してみて、不思議な気持ちでいた。そもそも、ここにいること自体が不思議と言われてもおかしくない夜。子どもの頃、こんな今の自分を想像しただろうか。結婚して、海外で生活する自分を、一人で日本に帰ろうとする自分を。
「ロンドンの夜に、乾杯」
グラスを傾けた貴広に、里穂はわずかに表情を曇らせて、少し濁った金色の液体の入ったグラスを傾けた。
翌日、里穂が日本に発つ日の朝だった。夜のフライトだったが、空港へ行く時間などを考えると、貴広の帰宅時間にはもう里穂は空港にいる予定だったため、この朝の彼の見送りがしばらくの別れの瞬間だった。気を付けて、楽しんできてと言って貴広は里穂に口づけた。とても渇いた口づけ。それは本当にただの挨拶のキスだった。それでも行ってきますと里穂が笑顔を見せれば、貴広もまた笑顔を見せてくれる。ここのところ、こういうことが続いている。
笑顔で別れて、また笑顔で会えるはずなのに、互いに気を遣いあっていた。一時帰国の後、里穂が大泣きしたことは間違いなくその引き金だった。
そしてその前、宗一郎と再会したときのことも、少なからず影響していた。
あの夜、東京のホテルで「里穂が話したいことがあれば聞く」と貴広が言ったこと。いつでも話はできるのに、していない。
話し合うことで理解は深まるのかもしれないが、これ以上を二人ともが話せないでいた。
気を遣いあう日々。意味があるのかないのかわからない程度のキス。一緒に眠ることはあっても、それ以上はない。それこそ、意味もなく服を脱いで肌を重ねられるほど自分たちは幼くもないことを、互いにわかっていた。
貴広が出て行った後で、里穂は別れのハグをしなかったことに気づいた。たいしたことじゃない。ただの挨拶の抱擁なんて。それにまた一週間後に会えるはずなのだから、と思いながら、なぜだかとても、抱きしめておけばよかったと里穂は思った。
ロンドンから日本へ向かう12時間のフライトは二回目だった。ロンドンの夜に出て日本の午後に着くスケジュールはやはり慣れない。
一人きりで飛行機に乗るとき、里穂はわずかに緊張する。雑談をする相手もいないし、何かのトラブルがあっても一人で対処するしかない。飛行機に乗るときに限らず、いつだってそうだ。
貴広の隣にいるときの安心を里穂は思い出しつつも、飛行機特有の轟音の中で一人でいることの自由さも感じていた。真弓の言う、一人での帰国もいいものだという言葉も納得できる。ひとり身の気楽さ。そして帰る場所のどちらも手にしている今。里穂は自分が本当に守り抜きたいのは何なのだろうと考えてしまう。
退屈しのぎに見ていた映画は、ところどころ見逃しているのでもはや内容はわからず、ただの映像として前方座席の枕部分に映し出されているのみ。時折聞こえるアナウンスの指示に従いつつ、里穂は静かに瞼を閉じる。日本に帰ってからすることを考えて。
スーツケースに荷物を詰める里穂の姿が家出をしようとする少女のように見える。夏用のサンダルにパンプス、薄手のカーディガンにジャケット、ワンピースとスカート。一週間の滞在にいったいどれほどの予定が詰まっているのか。聞きたい気持ちをぐっと飲みこんで貴広は静かに言う。
「お義父さんとお義母さんによろしく」
「ありがとう。貴広からって言ったら、間違いなく喜ぶわ」
日本ではあまり手に入らないスコッチウィスキー、それからロンドン限定の紅茶缶、ショートブレッドなどのお土産。これらを託すことくらいしか、一人で帰国するという里穂に貴弘ができることはなかった。
「一緒に行けなくて悪い」
申し訳なさそうに貴広が言うと、里穂はどこか清々しい雰囲気も感じさせながら笑顔をみせた。
今回の帰国にあたり、里穂は貴広に一緒に来て欲しいとは言わなかった。ただ、前回の帰省で会えなかった祖父母など、いつ会えなくなるかわからない人に会いたいと言って、少し一人で日本に行くことを申し出たのだ。貴広は、本心はどうかわからないが、快く返事をした。
「そんなの気にしないで。気持ちだけで十分よ。私こそ、一人で日本に帰らせてもらって申しわけないわ。きちんと食事をとってね。それから掃除と洗濯と」
「努力するよ」
笑いながら、貴広は目についた黒い中身が詰まった瓶を手に取る。
「くるみのピクルスなんて誰にあげるんだ?」
褐色の瓶を持った貴広がしかめっ面で言う。自分が好きではないものに対してはこんな扱いをする。
最近の日本は輸入食品の店なども増えて、海外の品物も気軽に手に入るものがかなり増えたが、このくるみのピクルスは見たことがなかった。
「桃子よ。話をしたら食べてみたいっていうから。」
もう一つの瓶を荷物にまとめながら、里穂は言う。
「両親と、あと会えたら宗にもあげようかと思って」
何気なく発した一言。宗という名前。そのとき、わずかに時間が止まる感じを里穂と貴弘が互いに味わう。こういうとき、嘘をつけばよかった、と里穂は思う。本当のことは、必ずしも必要ないのだと思うのは、貴広の表情が悲しそうに見えるからだ。
彼は、そっか、と言ってその瓶をそっと里穂に手渡した。
「夕食の準備をするわ」
瓶を荷物にまとめると里穂が立ち上がって言う。貴広がすかさず反応する。
「手伝うよ」
その言葉に里穂はありがとう、と言う。お互いに思いやりを持って支えあっている夫婦、のはずだ。それは、とても美しいことのはずだった。
気を遣いあっているだけではないとそれぞれが思いながら、二人で夕食の準備をした。
鱈とじゃがいものフライ。ローストビーフ、きゅうりのサンドイッチを並べて、ペールエールで乾杯をした。簡単ながらもロンドンらしい食事に貴広が言った。
「最後の晩餐」
「やめて、縁起でもない。」
貴広は笑って冗談として言ったつもりだが、少し試していた気持ちもなくはない。里穂が日本に行っても、またロンドンに戻ってくること。これが最後のディナーなんかじゃないことを確かめたかった。
でも飛行機での長距離の移動に何があるのかは誰もわからない。
飛行機が事故に合うとも言い切れない。何かのきっかけで日本から戻って来られなくなるとも言い切れない。いつだって今夜が最後の夜になりえるのだ。ここに戻りたくない、と思うことだって、当然。ないとは言い切れない。
里穂自身は明日から東京に戻ることを想像してみて、不思議な気持ちでいた。そもそも、ここにいること自体が不思議と言われてもおかしくない夜。子どもの頃、こんな今の自分を想像しただろうか。結婚して、海外で生活する自分を、一人で日本に帰ろうとする自分を。
「ロンドンの夜に、乾杯」
グラスを傾けた貴広に、里穂はわずかに表情を曇らせて、少し濁った金色の液体の入ったグラスを傾けた。
翌日、里穂が日本に発つ日の朝だった。夜のフライトだったが、空港へ行く時間などを考えると、貴広の帰宅時間にはもう里穂は空港にいる予定だったため、この朝の彼の見送りがしばらくの別れの瞬間だった。気を付けて、楽しんできてと言って貴広は里穂に口づけた。とても渇いた口づけ。それは本当にただの挨拶のキスだった。それでも行ってきますと里穂が笑顔を見せれば、貴広もまた笑顔を見せてくれる。ここのところ、こういうことが続いている。
笑顔で別れて、また笑顔で会えるはずなのに、互いに気を遣いあっていた。一時帰国の後、里穂が大泣きしたことは間違いなくその引き金だった。
そしてその前、宗一郎と再会したときのことも、少なからず影響していた。
あの夜、東京のホテルで「里穂が話したいことがあれば聞く」と貴広が言ったこと。いつでも話はできるのに、していない。
話し合うことで理解は深まるのかもしれないが、これ以上を二人ともが話せないでいた。
気を遣いあう日々。意味があるのかないのかわからない程度のキス。一緒に眠ることはあっても、それ以上はない。それこそ、意味もなく服を脱いで肌を重ねられるほど自分たちは幼くもないことを、互いにわかっていた。
貴広が出て行った後で、里穂は別れのハグをしなかったことに気づいた。たいしたことじゃない。ただの挨拶の抱擁なんて。それにまた一週間後に会えるはずなのだから、と思いながら、なぜだかとても、抱きしめておけばよかったと里穂は思った。
ロンドンから日本へ向かう12時間のフライトは二回目だった。ロンドンの夜に出て日本の午後に着くスケジュールはやはり慣れない。
一人きりで飛行機に乗るとき、里穂はわずかに緊張する。雑談をする相手もいないし、何かのトラブルがあっても一人で対処するしかない。飛行機に乗るときに限らず、いつだってそうだ。
貴広の隣にいるときの安心を里穂は思い出しつつも、飛行機特有の轟音の中で一人でいることの自由さも感じていた。真弓の言う、一人での帰国もいいものだという言葉も納得できる。ひとり身の気楽さ。そして帰る場所のどちらも手にしている今。里穂は自分が本当に守り抜きたいのは何なのだろうと考えてしまう。
退屈しのぎに見ていた映画は、ところどころ見逃しているのでもはや内容はわからず、ただの映像として前方座席の枕部分に映し出されているのみ。時折聞こえるアナウンスの指示に従いつつ、里穂は静かに瞼を閉じる。日本に帰ってからすることを考えて。