情熱の続き
「来週、帰国します。今度は一人で。どこかいいタイミングで会えたら嬉しいです。」

五月最後の日曜日の朝、ベッドのなかで里穂のメールを読んだ宗一郎は画面を消してもう一度枕に顔を埋めて瞳を閉じる。スマートフォンに映った時刻はまだ午前七時。休日の朝くらいもうちょっとゆっくり眠りたいと思うと、瞼はいっそう硬く閉じられる。

来週帰国。一人で。会えたら嬉しい。

短い文章のなかでも特に重要なキーワードが、寝起きでまだはっきりしない頭の中で繰り返している。里穂の声でその言葉をもう一度想像してみる。来週帰るよと、会えたら嬉しいなと。柔らかな声。甘い笑顔。それでも、どうして彼女が目の前にいないのかと思うと虚しくなる。

「今はもう貴広と里穂が結婚していることを忘れないで」

宗一郎の頭にふと浮かんでくる桃子の言葉。今しがた言われたかのように、その言葉ははっきりと残っていた。

「わかってる」

強い口調で宗一郎はひとり口に出してみて、うつ伏せの状態から一人ベッドから起ゆっくりと起き上がった。

「わかってるんだ」

里穂と気軽に会えない悲しさ、触れられない悔しさ。それを誰に訴えるでもなく、柔らかなクッションに静かに拳を打ち付けた。そしてそれが本当は自分のせいだとも思いながら。満たされない自分のために。

でもきっといつか気が済むはずだと宗一郎は思っていた。その‘いつか’が見えないことが苦しいだけだ。それまで忙しくしていよう。仕事、勉強、他のことに夢中になっていれば、いつかきっと里穂を好きだった自分の気持ちもおさまるはずだ、と。

午後、宗一郎が論文を読んでいるとスマートフォンが音を鳴らした。誰からであっても電話には出ないつもりだったが、短い着信音が教えてくれるのはメッセージだったのでそっと手を伸ばして確認する。送信主は結衣だった。

「バラが見ごろなので近いうちにお出かけしませんか。気分転換においしい料理も」

そのメッセージに、宗一郎は季節の移り変わりをいくらか感じた。桜が終わって、景色の緑が濃くなってきていることは気づいていたが、ありふれた日常について話す相手もいなかった。話したいと思うこともなかったが、自分と話をしようと思ってくれる人がいることは、貴重なことに思えた。

「面白い話はできないかもしれないけど」

前置きをしつつ今後の予定とともにOKの返事を送ると結衣はすぐに返事を寄越した。

「私の面白い話がたくさんあるの!笑わせてあげます!」

そのメッセージを読んだだけで、宗一郎はつい笑ってしまう。陰鬱な気持ちがすっと消え去る感じがした。まるで曇り空が続いたのちの、気持ちのいい天気の日みたいな気分だった。
年下の女性に気を遣わせているのかと思うと申し訳なくもあったが、今はただ彼女のその明るさが、宗一郎にとってありがたかった。

「おいしい食事をご馳走してあげないといけないね」

穏やかに笑顔を浮かべたまま、宗一郎は誘われた庭園の近くに何かおいしいお店はないかとスマートフォンで調べ始めた。
珍しい料理、人気店、話題の店、見つけるたびに結衣の笑う顔が浮かんでくる。そこには何か今までと違う感情があった。
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