情熱の続き
里穂が一人で帰国すると桃子に連絡をしてきて、本当に姿を現したのはそれから一週間後だった。
「あっというまね」
桃子が言うと里穂は嬉しそうにした。直行便があるから意外とすぐなの、と言って。
桃子が聞きたかったことはそういうことではないと思いつつ、里穂が元気な様子に安心していた。こんな突然現れると思っていなかったので、何かあったのかと気になっていたのだ。もちろん、帰国の計画だけはもっとずっと前からあって、連絡が直前になったというだけなのかもしれないが。
土曜日の午後、里穂は桃子と日比谷のカフェでお茶をしている。こうしていると東京で会社員をしていた頃と何ら変わりない日常のようだった。
「貴広は、大丈夫だったの?」
桃子の言葉に里穂は小さな焼き菓子を一つ口に入れたのち、十分に咀嚼し、まるで考えをまとめているかのようにして、その食べ物の塊を飲み込んでから言葉を発した。
「仕事があるからって、笑顔で見送ってくれたわ。」
大丈夫よ、何も問題ないの。里穂の笑顔はそう言っていた。それと同時に、桃子は貴広のことを考えてしまう。いつも笑っていて、冗談をよく言っていて、泣き顔も悲しい顔も見たことのない彼の顔を、なぜだか桃子は想像してしまう。
「私は、止めるべきだったのかしら」
桃子の発言に里穂は口元に運ぶ予定だったティーカップを途中で止める。何を?という顔をした里穂の顔を桃子はじっと見た。その顔は、何のことかわからないという顔をしていた。止めるべきことが何のことなのか、里穂には本当にわからなかった。
「里穂が、貴広と結婚すること。」
桃子の言葉に里穂の表情が固まる。
「私は、里穂が宗とうまくいくように、応援すべきだったのかなって、最近そんなことを考えてしまうの」
里穂はティーカップを若干慌ただしくテーブルに置いて言う。
「宗とは、何もないのよ。もちろん大切な存在よ。すごく自分をわかってくれていて、同じ気持ちを分かち合えて、安心できるから。何を話すのも怖くなくて、居心地もいい。でもキスのひとつさえしたことがないの。本当に。」
里穂の言葉を桃子は静かに聞いていた。疑うつもりなどないという様子で。ただ里穂の胸の内を聞きたかったという様子ではあった。その穏やかな相槌に誘導されるように、里穂はぽつりと言った。
「もしも宗とだったら、どんな今を過ごしているのかなとは考えることはあるけれど」
里穂は一度テーブルに置いたティーカップを再び手に持って、口元に運んだ。静かに紅茶を口に含むと、桃子が何を言うのかを待った。言葉にした後で、理解されるはずはない、と里穂は自分をわずかに嘲笑する。ばかなことを口にしてしまった、とも。それを自覚して、叱責を覚悟したところで、桃子が言った。
「自分の気持ちを否定する必要はないわ」
桃子の発言に里穂はわずかに首をかしげる。どういうつもりでその言葉を言っているのか、次の言葉を待つしかなかった。
「私は、里穂は宗のことが好きなのかと思っていた。宗とうまくいくのかな、ともね。でも、貴広の気持ちもなんとなくわかっていた。里穂のことが好きなんだろうなって。それで、貴広とデートしてる話を聞いて、二人が結婚することになって、私はそれを祝福したわ。大好きな二人がうまくいくことは、本当に嬉しかったのよ。でも私が友人としてすべきことは、もっと違うことだったんじゃないのかなって思っちゃうのよ。もっと里穂の気持ちを、話をよく聞いてあげればよかったって」
どこか申し訳なさそうに桃子が言って、里穂はつい口を出す。
「それは違うわ。私は、私の気持ちで、きちんと動いている。貴広を、拒めなかったと言うのは言い方が悪いけれど、でもそれが答えだと思ったの。受け入れたのは私だった。桃子が背中を押したとか、そんなことはないわ。宗とのことも、今だから気づけたことがあるの」
必死で里穂は訴えながらも、宗一郎に抱きしめられたこと、自分から彼を抱きしめたことは言えなかった。言いたくなかったともいえる。二人だけが分かち合えればいいことだと思っていた。
今だから気づけたことがある、という言葉を桃子は独り言のように繰り返して、そして里穂を見て言った。
「またいつか、そのとき気づくことがあると思う。そのとき、里穂が納得できるように」
桃子は心配そうな顔をしていた。誰の味方ということもない、どうなって欲しいということもない、というように。
「ごねんね」
里穂の言葉に桃子はすぐさま、どうして?と言った。なぜ謝るの、というように。
「私のだめなところを、どんどん見せているから。大人になって、成長するどころか、子どもの頃よりも桃子に心配かけちゃうなんて。恥ずかしいわ、いろいろと」
桃子は笑った。何を言っているのと言って。
「心配というのは図々しいけれど、こっちこそ勝手に気にかけてごめんね。よかれと思って宗に職場の後輩を紹介したことも、里穂を傷つけていたのかもしれないと思うと、私のほうこそ申し訳なくて」
「それは、桃子が気にするようなことじゃないわ。きっかけなんてあってもなくても、宗が誰かを好きになることは、いつだってありえるから」
里穂の言葉に桃子は納得したように頷いた。
「それは、確かにそうね。本当に、誰かが誰かを好きになるのって、どうしようもないことだわ。結婚しているからって、誰かのことを好きにならないとも限らない。正しいか正しくないかではなくて。人の気持ちって、そのくらいどうしようもないことだと思う。そのあとどう行動するかは、よく考えて行動しなくちゃいけないだろうけど」
桃子の言葉は救いのようでもあり、釘を刺されているようでもあった。ただの挨拶で済まされない抱擁のことは桃子に言えなくて、一つ一つが胸に刺さった。少しだけ俯く里穂の顔を覗き込むように桃子が言った。
「私、里穂が好きよ。幸せでいてほしい。本当にそれだけ。だから、納得のいくようにして欲しいの。でもね、答えは、いつもすぐに出す必要はないわ。急がなくていいって、里穂はよく言っていたじゃない」
桃子の言葉に、途中で里穂は泣きそうになったのに、最後の言葉で思わず笑った。
‘急がなくていい’は、本を貸すときとか、メールの返事だとか、何気ない場面で里穂がよく使った言葉だった。里穂は自分では意識していなかったが、よく使うよねと指摘されて恥ずかしくなった覚えがあった。そして里穂に急かされたら終わりだねと話して大笑いしたことも、まだ二人が揃いの制服を着ていた頃の話だった。
「ありがとう、ずっと仲良くしてくれていて」
恥ずかしさと嬉しさで、里穂は桃子の顔を見て言えなかった。それでもきちんと自分の言葉で伝えられた。桃子はこれまでと変わりない様子で、笑って言った。
「まだまだ続くのよ。今度一緒にヨーロッパ旅行したいし、私の相談事にだって付き合って欲しい。またお酒も飲みに行こうよ。」
「うん、また遊ぼうね。必ず」
三日後のフライトでロンドンに戻って、その先のことは、今はまだわからない。でも次の約束をして別れたかった。それくらい、里穂は桃子をとても好きだと思った。
「あっというまね」
桃子が言うと里穂は嬉しそうにした。直行便があるから意外とすぐなの、と言って。
桃子が聞きたかったことはそういうことではないと思いつつ、里穂が元気な様子に安心していた。こんな突然現れると思っていなかったので、何かあったのかと気になっていたのだ。もちろん、帰国の計画だけはもっとずっと前からあって、連絡が直前になったというだけなのかもしれないが。
土曜日の午後、里穂は桃子と日比谷のカフェでお茶をしている。こうしていると東京で会社員をしていた頃と何ら変わりない日常のようだった。
「貴広は、大丈夫だったの?」
桃子の言葉に里穂は小さな焼き菓子を一つ口に入れたのち、十分に咀嚼し、まるで考えをまとめているかのようにして、その食べ物の塊を飲み込んでから言葉を発した。
「仕事があるからって、笑顔で見送ってくれたわ。」
大丈夫よ、何も問題ないの。里穂の笑顔はそう言っていた。それと同時に、桃子は貴広のことを考えてしまう。いつも笑っていて、冗談をよく言っていて、泣き顔も悲しい顔も見たことのない彼の顔を、なぜだか桃子は想像してしまう。
「私は、止めるべきだったのかしら」
桃子の発言に里穂は口元に運ぶ予定だったティーカップを途中で止める。何を?という顔をした里穂の顔を桃子はじっと見た。その顔は、何のことかわからないという顔をしていた。止めるべきことが何のことなのか、里穂には本当にわからなかった。
「里穂が、貴広と結婚すること。」
桃子の言葉に里穂の表情が固まる。
「私は、里穂が宗とうまくいくように、応援すべきだったのかなって、最近そんなことを考えてしまうの」
里穂はティーカップを若干慌ただしくテーブルに置いて言う。
「宗とは、何もないのよ。もちろん大切な存在よ。すごく自分をわかってくれていて、同じ気持ちを分かち合えて、安心できるから。何を話すのも怖くなくて、居心地もいい。でもキスのひとつさえしたことがないの。本当に。」
里穂の言葉を桃子は静かに聞いていた。疑うつもりなどないという様子で。ただ里穂の胸の内を聞きたかったという様子ではあった。その穏やかな相槌に誘導されるように、里穂はぽつりと言った。
「もしも宗とだったら、どんな今を過ごしているのかなとは考えることはあるけれど」
里穂は一度テーブルに置いたティーカップを再び手に持って、口元に運んだ。静かに紅茶を口に含むと、桃子が何を言うのかを待った。言葉にした後で、理解されるはずはない、と里穂は自分をわずかに嘲笑する。ばかなことを口にしてしまった、とも。それを自覚して、叱責を覚悟したところで、桃子が言った。
「自分の気持ちを否定する必要はないわ」
桃子の発言に里穂はわずかに首をかしげる。どういうつもりでその言葉を言っているのか、次の言葉を待つしかなかった。
「私は、里穂は宗のことが好きなのかと思っていた。宗とうまくいくのかな、ともね。でも、貴広の気持ちもなんとなくわかっていた。里穂のことが好きなんだろうなって。それで、貴広とデートしてる話を聞いて、二人が結婚することになって、私はそれを祝福したわ。大好きな二人がうまくいくことは、本当に嬉しかったのよ。でも私が友人としてすべきことは、もっと違うことだったんじゃないのかなって思っちゃうのよ。もっと里穂の気持ちを、話をよく聞いてあげればよかったって」
どこか申し訳なさそうに桃子が言って、里穂はつい口を出す。
「それは違うわ。私は、私の気持ちで、きちんと動いている。貴広を、拒めなかったと言うのは言い方が悪いけれど、でもそれが答えだと思ったの。受け入れたのは私だった。桃子が背中を押したとか、そんなことはないわ。宗とのことも、今だから気づけたことがあるの」
必死で里穂は訴えながらも、宗一郎に抱きしめられたこと、自分から彼を抱きしめたことは言えなかった。言いたくなかったともいえる。二人だけが分かち合えればいいことだと思っていた。
今だから気づけたことがある、という言葉を桃子は独り言のように繰り返して、そして里穂を見て言った。
「またいつか、そのとき気づくことがあると思う。そのとき、里穂が納得できるように」
桃子は心配そうな顔をしていた。誰の味方ということもない、どうなって欲しいということもない、というように。
「ごねんね」
里穂の言葉に桃子はすぐさま、どうして?と言った。なぜ謝るの、というように。
「私のだめなところを、どんどん見せているから。大人になって、成長するどころか、子どもの頃よりも桃子に心配かけちゃうなんて。恥ずかしいわ、いろいろと」
桃子は笑った。何を言っているのと言って。
「心配というのは図々しいけれど、こっちこそ勝手に気にかけてごめんね。よかれと思って宗に職場の後輩を紹介したことも、里穂を傷つけていたのかもしれないと思うと、私のほうこそ申し訳なくて」
「それは、桃子が気にするようなことじゃないわ。きっかけなんてあってもなくても、宗が誰かを好きになることは、いつだってありえるから」
里穂の言葉に桃子は納得したように頷いた。
「それは、確かにそうね。本当に、誰かが誰かを好きになるのって、どうしようもないことだわ。結婚しているからって、誰かのことを好きにならないとも限らない。正しいか正しくないかではなくて。人の気持ちって、そのくらいどうしようもないことだと思う。そのあとどう行動するかは、よく考えて行動しなくちゃいけないだろうけど」
桃子の言葉は救いのようでもあり、釘を刺されているようでもあった。ただの挨拶で済まされない抱擁のことは桃子に言えなくて、一つ一つが胸に刺さった。少しだけ俯く里穂の顔を覗き込むように桃子が言った。
「私、里穂が好きよ。幸せでいてほしい。本当にそれだけ。だから、納得のいくようにして欲しいの。でもね、答えは、いつもすぐに出す必要はないわ。急がなくていいって、里穂はよく言っていたじゃない」
桃子の言葉に、途中で里穂は泣きそうになったのに、最後の言葉で思わず笑った。
‘急がなくていい’は、本を貸すときとか、メールの返事だとか、何気ない場面で里穂がよく使った言葉だった。里穂は自分では意識していなかったが、よく使うよねと指摘されて恥ずかしくなった覚えがあった。そして里穂に急かされたら終わりだねと話して大笑いしたことも、まだ二人が揃いの制服を着ていた頃の話だった。
「ありがとう、ずっと仲良くしてくれていて」
恥ずかしさと嬉しさで、里穂は桃子の顔を見て言えなかった。それでもきちんと自分の言葉で伝えられた。桃子はこれまでと変わりない様子で、笑って言った。
「まだまだ続くのよ。今度一緒にヨーロッパ旅行したいし、私の相談事にだって付き合って欲しい。またお酒も飲みに行こうよ。」
「うん、また遊ぼうね。必ず」
三日後のフライトでロンドンに戻って、その先のことは、今はまだわからない。でも次の約束をして別れたかった。それくらい、里穂は桃子をとても好きだと思った。