情熱の続き
玄関が開く音に驚いた里穂は思わず手元にあった化粧水などスーツケースから出した品をいくつか倒してしまった。
しかし次の瞬間、安堵に変わる。

「里穂、帰ってきた?」

ほんの一週間離れていただけで、懐かしく聞こえてしまう貴広の声。ずっと前から聞きたかった声に思えてしまうほど、久しぶりに感じた。
電気のついたリビングを開けるなり貴広がおかえり、と言って思わず里穂は笑う。

「家の中にいる人間におかえりっていうのもおかしいわ」

里穂の姿を確認した貴広は笑った。

「待っていたよ」
「嘘。待ってなかったじゃない」

土曜日なのに、どこに行っていたの。冗談っぽく里穂が笑って言うと、貴広は申し訳なさそうな顔をして手に持っていた袋を見せた。

「ちょっとオフィスに寄って、それから買い物。今夜一緒に食べよう思って。里穂の好きそうなのを。」
「そんなのいいのに。」

彼の心遣いを嬉しく思うと同時に、里穂の胸には寂しさがまた込みあげる。気を遣いあっているだけに思えてしまって。

冷蔵庫に入れるものがあるのか里穂が聞いて袋の中のものを取り出すと、そこには瓶詰の小さなきゅうりのピクルスが入っていた。紺色のラベルに白い文字。里穂がいつも食べていたピクルスだった。宗一郎とともに。

先に冷蔵庫に入れるべき肉や魚よりもそれを手にとった里穂に貴広は言う。

「よくそれ食べてたから、好きなのかなって思って。」

何気ない貴広の言葉、気遣い。それらすべてが宗一郎につながってしまうことの皮肉。
夕飯は鱈でアクアパッツァ風にしようと思うけど食べられるかと聞く貴広に、里穂はピクルスの瓶を持ったまま言った。

「このピクルス、宗が好きだったのよ」

食材を片付けている途中の冷蔵庫を開けた状態で貴広は顔を里穂に向けた。
宗一郎の名前が出るとき、会話はいつも一瞬止まる。怒りではない。悲しみでもない。その顔はわずかに動揺している、という表現が一番近いように里穂の目に映った。

「宗がおいしいって教えてくれて、それでよく食べるようになったの。さっぱりしていておいしいから」

貴広が聞きたいことを里穂はわかっていた。
‘日本で宗に会った?’と聞きたい気持ちを彼が必死で抑えていることも、里穂はよくわかっていた。
冷蔵庫がピーピー音を出して扉を閉めてくれと訴えている。ようやく扉を閉めると貴広より先に里穂が言った。

「よく、一緒に食べたわ。まだこうして結婚する前、仕事帰りに宗の家に寄せてもらって。」

片手にずっしりと収まる大瓶をダイニングのテーブルに置いて、里穂はしみじみとそれを眺めていた。
過ぎ去った時間は、いつも、どうしてこんなにまぶしいのだろう。大切にしたい過去、懐かしい思い出があるだけで、十分のはずなのに。手を伸ばしたくなってしまう。触れたくなってしまう。取り戻したくなってしまう。
里穂は今、それを理解してほしくて貴広に話しているわけではなかった。

「ほんの2日前にも、食べさせてもらったの」

貴広の顔に困惑した想いがにじみ出ているのが里穂はわかった。話す必要はなかったのかもしれない。おかえりとただいまを言って、楽しかった日々を分かち合っていくだけなら、必要のない会話だった。自分が楽になるためだけに真実を吐き出すのはずるいと里穂はわかっていた。そうじゃない。許しを請いたいわけでもない。わかって欲しいわけでもない。ただ、里穂は嘘をつきたくない、と思っていた。

「私、宗に恋をしていたのね」

貴広の顔が、わずかに歪む。余計なことを言えば彼が傷つくかもしれない、とわかっていた。それでも里穂は話しておきたかった。

「私と宗は似ているところがたくさんあるから、分かり合えると思っていた。ロンドンに来て気軽に会えなくなって、一緒に過ごした時間が懐かしくて、会いたくなって、話がしたくて。宗が今何を考えているのか、自分のことをどう思っているのか、いつも知りたかった。」

里穂の話を貴広は静かに聞いていた。その表情には怒りも悲しみもなかった。

「知りたいと思う気持ちは、恋そのものだったわ」

里穂の言葉に貴広はただ静かに相槌を打つ。
貴広はとてもまともな人間だ。冗談を言って空気を明るくしてくれることも多いけれど、必要なシーンではきちんと真面目な顔をして人の話を聞き、彼なりにベストな発言をしようとする。そうやって人間関係も仕事も上手にこなしてきた。里穂との関係もよくなるように努力してくれていた。それなのに、と里穂は思いながら、続けて言った。

「貴広がいつもそばにいてくれたのに、宗に会いたかったの。」

互いに立ち尽くしたまま、それ以上近づくことも遠くにいくこともできないでいた。友人同士から夫婦になった二人のその距離は近づいたはずだった。それでも過ぎ去った日々はまぶしすぎた。どこにいても宗一郎は里穂にとって貴重すぎる存在だった。

「でもね、宗と貴広は比べられるようなことでなくて、本当に二人とも、私にとって大切な人だったのね」

里穂の言う大切な人の意味を聞く前に、貴広は納得したような顔をみせていた。そして穏やかな口調で言う。

「宗のことは、仕方ないと思っていた。あいつの気持ちもなんとなくわかっていたし。もちろんイヤなんだけどさ。」

イヤなんだけどさ、というその言い方で、そこが彼の本心なんだろうなと思って思わず里穂は笑った。

「里穂が宗を好きならそれは仕方ないことだと思っていた。人の気持ちなんて、誰かに言われて変えられるようなものじゃないし。いつも自分の気持ちに正直でいるべきだと思う。」

貴広は里穂をまっすぐ見て、でもどこか寂しそうにも見える顔つきで、しっかりと言った。決して調子のいいことを言っているわけではなく、本心なのだと里穂はわかった。

「ただ俺は、里穂に言われた‘自分勝手’な自分に、ものすごく反省していた。その通りだなって。もっと違う方法で、里穂を大事にできたんじゃないかって。」

そのとき里穂の頭には貴広の胸を叩いて大泣きした自分が浮かんだ。
本当に心苦しい様子で貴広が言うので、里穂もまた同じようにごめんね、と言うと彼は首を横に振った。言ってくれてよかったんだ、と言って。

しかしながら、泣いたり本音をぶつけたり、そんなやりとりがなければ、お互いに気持ちのいい関係のままでいられたはずだった。相手を傷つける言葉なんて、使わないで済むのならそのほうがいい。友達のままなら、こんな気まずさだって味わう必要はなかった。

「私と、結婚しないほうがよかった?」

里穂のなかに、ここのところふと浮かんでくる悩みだった。結婚しなければ、友達のままでいれば、泣き顔を見せたり、言いたくないことを言い合ったりしないで済んだはずだった。

いつまでも居心地のいいまま、笑顔で会って笑顔で別れて、また同じように会える友達でいることの良さは、確かにあるはずだった。それは、宗一郎との会話からも改めて感じることだった。価値観をぶつけ合って、傷つけあって、嫌いになってさようならを言うことだってもちろんあるのだ。

若干しょぼくれた顔をした里穂に、貴広は笑った。そして明るく堂々とした、いつもの調子で言う。

「全然。考えたこともないね。」
「嘘」

里穂の言葉に貴弘は笑う。嘘つき扱いが多いな、と。そしてすぐに言った。

「嘘じゃないよ。今まで見れなかったいろんな里穂を見ることができた。こうしていなければ知ることのできないことだった。他の誰も知らない里穂を自分だけが知っている。それは俺の喜び。でもなるべく里穂を泣かせたり、傷つけたりしないようにと、好きでいてもらえるように努力しなくちゃとは思っていて、だから反省していた。」

その言葉に、里穂は自分が彼に泣いて当たり散らして、ふてくされた姿を思い出して、恥ずかしくなると同時に、申し訳なくなった。ありがたい言葉よりも、そちらのほうが重要な気がしてしまったのだ。しかし貴広はそんなことは全く気にしていないという様子だった。

「本当、俺って自分勝手だよな。大変だよ、里穂は。いきなり、好きだ好きだ言われて、海外に連れてこられてさあ。」

自分に呆れたように貴広が言う様子がおかしくて、里穂はこわばらせていた表情を緩める。その様子を見つめる貴広は穏やかな顔つきで、言った。

「だから、後悔は一つもない。そしてこれからも努力することを約束するよ。里穂のたった一人のよき伴侶でいられるように。誰よりも里穂をわかりたい」

貴広はきちんと里穂を見ていた。笑顔で、でもあの蒸し暑い日本の六月、想いを告げてくれたときのように真剣な顔つきで。いつも冗談を言って笑わせてくれることばかりだった貴広の、まっすぐなまなざしは、あの日と少しも変わっていなかった。

そのとき、里穂の胸に熱いものが込みあげるのがわかった。他の誰にも感じない、特別な感情。間違いなく彼は、自分にとっても、たった一人の人だった。

「今夜、私を抱いてくれる?」

この言葉が里穂の今のすべてだった。その肌の熱さも、自分をどんなふうに腕に抱いて眠るのかも、知りたいのは一人だった。この人以外にいなかった。

貴広は思いがけない発言にわずかに驚きながらも、里穂の顔を見て笑顔を見せた。先ほど里穂が言った、宗一郎も貴弘も二人とも大切な人の意味を、その違いを、きちんと理解していた。そして言った。出会ったばかりの学生時代のような、楽しいことを言うときの顔で。

「おう、今夜は寝かさないぜ」

ハンサムで、でも冗談を言ってくれて、いつも笑わせてくれた貴広。そんな彼を、里穂は学生時代、まだ友人同士だったときから、きちんと好きだったのだと改めて思った。大好きな友達は、いつだって大好きな人だったのだ、と。

「好きよ。貴広。今までもこれからも。本当に、大好きよ」

どうしても彼に触れたくて、ゆっくりと貴広に抱きつきながら、里穂は言った。同じセリフを、前にも言ったことがあった。でも今は、そのときよりももっと強くそう言えた。

晴れやかに微笑む里穂を、貴広は強く抱き寄せて、キスをした。もうずっと昔からそうしたかったというように。
腕に、胸に、唇に、確かに情熱があった。この情熱の先にあるものを見たい、と里穂は思う。
まるで物語の続きを楽しみにしていた子どもの頃みたいに。

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