情熱の続き
「里穂」

名前を呼ばれて里穂ははっとする。

「そんなに迷う?」

ワインを手に持ったままの里穂に貴広が言った。今夜は貴広が牛肉の煮込みを作ってくれると言って、それにあわせてワインを選んでいたところだった。

ロンドンの外食はお金がかかる。とは言っても、節約のためにスーパーマーケットで食材とワインを買っているのではない。日本でも屈指の総合商社に勤める貴広の給料は、若い夫婦が暮らしていくには十分すぎるほどの金額だった。
里穂が騒がしい外よりも自宅での食事を好むからだ。貴広は里穂のことをきちんと理解していた。
仕事を辞めて自分とともに外国に渡ってくれた新妻のために手料理をふるまうというのは、彼にとって少しの負担もなく、むしろ喜びの表現でもあった。

「せっかくおいしい料理を作ってくれるんだからと思うと、慎重になっちゃうわ。」

里穂がごまかすみたいに笑って言うと貴広は気づいていないのか気づかないふりをしてか、いつもと変わらない笑顔を見せた。

「どんな味になるかわからないから、あんまり真剣に選ぶと損するぞ」
「そうなの?自慢の料理じゃなかったの?」

貴広の言葉に里穂が慌てて聞き返すと彼は幼い顔を見せて「冗談」と言って笑った。

「きちんとおいしく作るよ。里穂がロンドンに来てくれてから最初の連休だから」

そう言って、ワインショップの棚の目立つところにあったボルドーの赤ワインを手に取った。毎日飲むものよりはちょっといい値段の、でも気負わなくていいようなワイン。里穂にとって、貴広といるのは気楽だ。気が付けば知り合って10年ほどが経つがいつだって楽しく、笑わせてくれた。大事な友達だった。

「ロンドン、一緒に来て欲しいんだ」

そうやって貴広に里穂が想いを告げられたのは、ほんの10か月ほど前のことだった。蒸し暑い日本の初夏を思い出す。

大学生の頃から友人関係にあった二人は結婚するにあたって特に障害や衝突はなかったが、里穂の気持ちだけがどうしてもついていけていなかった。日本でまだまだやりたい仕事もあったし、貴広を好きな気持ちはあくまでも友人としてという認識が強かったからだ。それでも貴広の情熱を里穂は受け入れて、二人はこうして彼の転勤先のロンドンで新しい生活を始めた。

「嬉しいな。里穂とロンドンの街を歩いているなんて、夢みたいだと言ったら大げさかもしれないけど。」

貴広は右手にワインと野菜などが入ったスーパーの袋を持って、左手で里穂の手を取って歩いていた。こうして手をつないで並んで歩くことさえ、一年前は想像できなかった。
二人でロンドンに行くことを、一緒に暮らすことを、誰よりも望んでいたのは貴広だった。その想いの強さに、心が動かないはずがない。

「いつだって意外なことがあるものよね」

本当は貴広が、‘私も同じよ’という返事を言って欲しいことを里穂はわかっていた。でも言えなかった。それよりも今の気分のほうがすんなりと言葉になったのだ。
里穂が笑って言うと貴広は立ち止った横断歩道で里穂を抱き寄せた。

「早く帰ろう」

そのとき感じる貴広の腕の強さを、怖いとは思わない。今、人目をはばからずにキスをしたい彼の気持ちもわかっていた。この腕の中が、この異国の地ではたった一つの拠り所であることは間違いなかった。出会ってからの数年間、友人として見ているだけだった腕の強さを、その肌の熱さを知ることができたことは、きっとありがたいことなのだと里穂は思う。

「雨が降りそう。急いで帰りましょう」

そう言って貴広の腕からするりと抜けて、ほんの少しだけ一人先に、里穂は横断歩道を渡った。
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