もう、キスだけじゃ足んない。


「えっ、なんで遥くん……日向くん、聞いてないよ!?」

「ええ、言ってませんから」


「日向くん!!」


今にも白目をむいて倒れそうな監督に、サラリと告げる先輩。

なんで遥が執事を……。


「……」


いつの間にか、ポカンとするしかない私の横に立っていた遥。


変わらず無表情で、なにも言わないけれど。

ぎゅっ。

はるか……。

いつもと同じ優しい色をしたまなざしを向けられたまま、そっと手を包み込まれた。


「説明してもらえる?理由によっては、いくら日向くんでも黙ってられないよ」


わざとらしいほど頭を抱えて、ふらふらしながらスタッフさんに寄りかかる監督さん。


相当怒ってるっぽい……。


声も低くて、イラつきを隠せていない。

けれど先輩は、怯むどころか、ただまっすぐに監督を見つめる。


「さっきやってみて思ったんですよね。
なんか違うなって」


「違うって?」


「ヒロインはもちろん胡桃さんでいいんですけど、執事は俺じゃなくて……」


遥が、ふさわしいって。


「理由は?」


「俺じゃだめなんです。力不足です。いくらがんばったって、胡桃さん……お嬢様の執事にはなれない。俺の思い描く執事は、お嬢様を、誰よりも強い想いで愛している男です。俺では、満足に演じることができません」


どうしても気持ちが負けてしまうんです。

誰かさんに。


淡々と話す早生先輩に、監督さんも、スタッフさんもみんな静まり返っている。


思っていることはみんな同じなんだと思う。


どの視線もみんな遥を見ていて、そして先輩も。


先輩、そんなこと思ってたの……?

だから珍しくリテイクして、何度もやり直して。


「さっきのシーン、もう一回お願いしたのは、遥で取り直してほしかったからです。執事は俺じゃなくて、遥がいい。俺の代わりに遥が出るべきだって」


「じゃあさっきの……遥くんのシーンはどうするの?もう撮っちゃったんだよ」


「秘密の恋にピッタリのシーンじゃないですか。
幸せ絶頂だったふたりが、離れなきゃいけなくなるシーン。使えますよね?セリフ入ってないんだし」


「まあ、そうだけど……」


それに。


「遥は、演技の才能があります」

「え?」


「演技したのは今日が初めてらしいんですけど、そうとは思えないくらい堂々としていて。それは俺が保証します」


もしかして……先輩がじっと遥を見てたのって、そういうことだったの?

遥の演技を見定めるために。

「許嫁がいるという設定は省いて、遥と胡桃さんが執事とお嬢様を演じる。それだけでいいんじゃないでしょうか」


「プロとして、力及ばず申し訳ありません。身勝手で、急な変更をお願いすることも」


シーン。

今にも監督の雷が落ちるんじゃないか、緊張と恐怖が入り交じって緊張が走る現場で、先輩の声だけが響き渡る。


「お願いします……お願いします……!」


何を考えているのかは分からない。

でも、厳しい顔で腕を組む監督さんに、先輩は深く頭を下げ続けた。
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