もう、キスだけじゃ足んない。

【胡桃side】


ただ、呆然と聞いていることしかできなかった。

ふたりが引退する理由、まさかファンの人の前で、桃華や私と付き合っていることを言うなんて……。

「それと……これは僕たちふたりからです」


カメラが一瞬捉えたのは、客席にいる一人の女の子。

「あんな子とは別れて」

「っ!!」


ドクンと心臓が波打った。


きっとネームボードというやつ。

それに描かれたメッセージ。

見た感じ、遥ファンの子だった。


ふたりはその子に一瞬厳しい目を向けたけれど、またまっすぐ正面を見た。


「他人をどう思うかは、その人それぞれです。好きとか嫌いとか、いろいろ思うことはあるでしょう」


「ですが」


「それを公の場で広言したり、直接本人に言うとなると、話は別です」


その瞬間、ざわめきが一気に静まり返った。

ふたりが言わんとしていること。

紛れもなく、私たちのこと。

私たちがどんな目に遭っているのか。

どんな思いで、毎日を過ごしているのか。


「容赦ない言葉をぶつけ、浴びせて、他人を傷つけている人。顔が見えないのをいいことに、好き勝手言っている人。あなたのしている行動が、いかにその人を傷つけているか、自覚してください」

「っ!!」


会場の空気が揺れたのが、画面越しでも分かった。


「あなたにとってはつい口を出ただけの軽いものかもしれませんが、言われた本人にとっては、これ以上にない苦しみを味わせ、深い傷を残します。思いやりのない、一時の感情で出た言葉や行動は、言ってしまったらもう取り消すことはできません」


「言葉は、刃物です」


「赤の他人に直接言ったり、容赦ない言葉を発信する以上、覚悟してください。その人を縛りつけ、一生に関わる傷を残す可能性があることを、覚悟して言うようにしてください」

「他人を傷つけるようことをした人へ。それは必ず自分に返ってくることを、絶対に忘れないでください」


シーンと静まり返った会場。

その中で、ふたりが一度深呼吸をしたのが分かった。


「俺たちのことはいくらでも好きなように言ってくれて構いません。ですが」

「彼女のことを……婚約者のことを悪く言うのだけはやめてください」


「これは事務所やお互いの両親にも認められ、了承を得ています」


婚約者!?きゃあーーーー!!

今まで以上に大きな叫び声が響き渡った。

けれどふたりは気にすることなく続ける。


「表舞台で話すのは、これが本当に最後です。
今までたくさんの方の支えがあったおかげで、ふたりでここまでくることができました」

「「応援していただき、本当にありがとうございました」」


いやあああああ!

待ってぇぇえええーーーー!


悲鳴の中でも、拍手の音がかすかに聞こえた。

ふたりは深く礼をしたあと、それ以上何も言うことなく、ステージを去っていく。
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