炎暑とバニラ
それは小さな小さな呟きだった。おそらくカウンターの中にいた上司には聞こえないほどに、小さな。
俺は目を瞠る。彼女はハッとして首を振った。
「いえ、その、本当にありがとうございました」
そう言って菓子折りの入った紙袋を握りしめ、さっと踵を返して部屋から出て行く。
「可愛かったなあ。なあ、恋とかに発展しないの」
背後からの上司ののんびりとした明るい声に、俺は「しないでしょうね」と淡々と答えた。
まあ──こういうのは、よくあることだ。
助けたって感謝されるわけじゃない。そもそも、感謝されたくてやっているわけでもない。
でも、彼女のことはなぜか気にかかった。
あのマンション火災、幸いなことに死者は0。単身用マンションだったから、彼女の家族が怪我をしたわけでもなんでもない。彼女は隣の部屋のタバコの不始末に巻き込まれて、けれど、すんでのところで助かった。
なのに──
あの呪いのような言葉が、耳から離れない。
窓の外は、コンクリートさえ溶けそうな炎暑。きっとセミすら鳴いていない。
「……」
俺ははっと気がついて、事務室の隅にある冷蔵庫に走った。