君の文庫を読み終えるまで
君の文庫を読み終えるまで
風音ソラ
薫は朋花が出版した文庫を読んでいた。
薫の脳裏にはあの日の朋花の笑顔が浮かんでは消えていた。
青春を共に過ごした朋花が人生で唯一出版した文庫ー
その表紙イラストを見つめながら薫は朋花と歩んだ日々を昨日ことのように思い返していた。
あの日、君が僕に伝えてくれたメッセージ
その一言が今も僕の耳の中でこだましていた。
「大好きだよ」
薫はその言葉だけで朋花のいない人生を歩んでいけるような気がしていた。
君は僕に言った。
「神様に選ばれた人だけが君に出会えるんだよ」
今になれば君が言ってくれたその言葉の意味が僕にはよく分かる。
人は今その人に必要な人だけが巡り合える。
あの日の君と僕もきっとそうだったんだね。
朋花。元気にしてるかな、、
出来るなら君の声をもう一度聞きたい。
僕の名前を何度も何度も呼んでくれた君にー
夕凪 薫は懐かしい一枚の写真を見ていた。そこには少し照れた表情の薫と横を向いて写っている朋花が笑っていた。
僕は今、あの日君に伝えたかったメッセージをこの手紙に綴っている。
あふれるほどの想いを込めてー
春の香が漂う町立霞ヶ丘高校の門を薫は期待と不安に胸躍らせながらくぐった。
桜の花びらが静かに散っていてその光景は友達が出来たことがない薫の気持ちも和ませた。
「新入生の方〜サッカー部です! 是非入部してくださいー」
あちらこちらで先輩の上級生達が新入生歓迎のビラを配っている。
「あ、君!」
「え?」
「君だよ君! サッカー部に入部しない!」
真っ黒に日焼けしたサッカー部員が薫に一枚のビラを差し出した。
薫はサッカーに憧れがあったがビラだけ受け取って逃げるように人の波をかいくぐった。
「ねぇねぇ、君。茶道部に入部しない! 男子が足りないんだ!」
「すみません、、」
薫は狭い世界から急に大海に投げ出されたような感覚に陥っていた。
「君! ラグビー部。。あ、ごめん。ラグビーって体じゃないな」
「ははは」
「先輩人みて勧誘してくださいよー」
そんな声を遠くに聞きながら薫は走って校舎の裏側の水飲み場までやって来た。
「はぁはぁ、、」
薫は水道の蛇口を捻り一口水を飲んだ。
心の底で情けない自分に嫌気が差していた。
ふと、薫を呼ぶ声が聞こえたー
「君、、そこの君。」
薫が見上げると一人の女子生徒が朝日に照らされて笑っていた。
「逃げるとこ間違えてるよ」
「え?」
「まぁ、いいや。君、文芸部に入らない?」
「ぶ、、文芸部ですか?」
「そう。小説書いたり詩を書いたり本を読んだり、、何でも良いんだけど人が足りないんだ、、」
「僕、小説なんて書いたことないですけど、、」
「いいの! ちょっとついて来て!」
女子生徒に手を引かれて薫は校舎の一階の薄暗い文芸部の部室に連れて来られた。
「ここ!」
「まぁ、良いから入って!」
「あの、、」
「あぁ、そうだ。自己紹介してなかったね。文芸部、部長の楓 朋花。よろしくね!」
「君は?」
「あ、この春この高校に入学した夕凪 薫です。」
「この春、入学したのは知ってるよ」
朋花はクスッと笑った。
「入って」
朋花がドアの鍵を開けるとキキーッとドアが軋んで薄暗い部屋が見えた。
薄暗い部屋に朝日が差し込んで美しく照らしていた。
「そこに座って」
「は、はい」
「緊張しなくていいよ。自分の部屋だと思ってね、、」
朋花は薫の前に立つと優しいまなざしで薫に語りかけた。
「君。小説は読んだことある?」
「あります」
「どの作品?」
『銀河鉄道の夜』
「ふーん。他には?」
「それだけです」
「それだけ?」
「はい。すみません、、」
「なーんだ。あてが外れちゃったかな、、」
「まぁ、いいや。私が一から教えてあげる」
「まずタイトルと登場人物。これは分かるよね?」
「はい。」
「次にプロット」
「何ですかそれ?」
「物語の大まかな流れを記したものだよ」
「初めて聞きました」
「誰だってそうだよ、、まぁ、簡単に言ったら小説の設計図みたいなものかな、、」
「でも、これはそんなに難しく考えなくても自分の書きたいように書けばいいよ」
「あとは、、そのうち教えていくね!」
朋花は薫の後ろに周り一冊の本を薫に持たせた。ほのかな香りが薫を包んでいた。
「次、部室に来るまでにこれ読んでてね!」
「あの、先輩。部員は何人いるんですか?」
「君と私だけだよ」
「あの、、」
「良いから。いいから。あ、それと毎日来なくても大丈夫だからね。気が向いた時だけ部室に足を運んで」
「それじゃ、私。次の子勧誘してくるから。またね!」
朋花はそれだけ告げると笑顔を見せて部室を後にした。
一人残された薫は唖然としていた。
まるで春の嵐が去ったようだった。
薫は朋花が去った後の部室のドアをただ見つめていた。
次の日、薫は朋花に渡された小説を持って文芸部の部室を訪れた。校舎の一階の廊下は夕日に照らされて光の粒がキラキラと輝いていた。
薫は文芸部の部室の前に着いて一つ深呼吸をしてから静かにドアをノックした。
「コンコン。。」
「失礼します」
薫が部室を覗くと朋花は何かを書いていた。
朋花の横顔が夕日に照らされていて薫は思わず目を逸らした。
「あの、、楓先輩、、」
薫は朋花の名前を呼んだ。
「あ、ごめん。集中してて君に気づかなかった。ごめんね」
「昨日貸した本読んだ?」
「読みました、、」
「そっか、そっか。感想はいいよ。君が感じたことを胸にしまってて」
薫は朋花に借りた『トロッコ』を朋花に手渡した。微かに朋花の指先に薫の指先が触れていた。
「そうだなぁ。。どうしよっかなぁ、、ま、良いや。とりあえず何か書いてもらおうかな、、」
朋花は薫に原稿用紙と鉛筆を手渡した。
渡させた鉛筆の先は綺麗に削られていて仄かに木と紙の匂いが薫には感じられた。
薫は躊躇したが朋花の隣に座りやがて鉛筆を握って何かを書き始めた。
夕方の部室で二人並んで座り小説を書いていた。鉛筆を走らせる音だけが微かに聞こえていた。
薫は原稿用紙に数行書いて手が止まっていたが横を見ると朋花は真剣な表情で筆を走らせていた。そのスピードはとても速くまるで頭の中に既に物語が完成しているように薫には思えた。
「何見てるの?」
朋花はこちらを見ずに薫に言った。
「ちゃんと集中して」
「君が思うことをただ書けば良いから」
「すみません、、」
「いいよ」
どれくらい書いていたのか分からなかった。気づけば辺りは暗くなりかけていた。
「そろそろ帰ろっか、、」
朋花は薫を見て言った。
「続きは自分の家で書いて来て。焦らなくてもいいよ。ゆっくり時間をかけて物語を完成させてみて」
朋花はそう言って笑うとキーホルダーが下げられた鞄を肩から掛けた。キーホルダーが静かに揺れていた。
薫も買ったばかりのカバンを肩からかけて朋花と一緒に部室を出た。
外に出ると少し肌寒く田舎の道にはあちらこちらに田んぼが広がっていて周りには何もなかった。遠くで蛙や虫の鳴き声が聞こえていた。道の脇には名前も知らない草花が生えていて風に吹かれて揺れる姿が美しかった。
「あの、、先輩はどうして文芸部に入ろうと思ったんですか?」
朋花はしばらく黙っていたがやがて静かに口を開いた。
「私の家、本屋さんなんだ、、父が小さな本屋を営んでいて小さい頃から身近に本がたくさんあったの」
「それで店番しながらお店の本をこっそり読んでたんだ」
「そうだったんですね、、」
「でも、誰にも読んだ本の感想や本のこと話せなかった、、」
「父と母はお店のことで忙しいから、私はずっと一人で本を読んでた、、」
「高校に入って文芸部に入ったけど誰も居なかった、、だから昨日君を見つけた時は嬉しかったんだ、、」
静かに春の優しい風が吹いていた。
「ここだよ」
朋花は「文風堂」と看板の掛けられたお店の前で止まった。
「ここが私のお家だよ。送ってくれてありがと、、また明日ね」
朋花はお店のドアを開けると振り向いてもう一度薫の顔を見た。
「また明日、、」
もう一度そう言って微笑むと家の中に入っていったー
薫は文芸部の部室を訪れた。
部室につながる校舎の廊下から中庭が見えた。花壇にお花が植えられていてたんぽぽの白い綿毛が風に吹かれて飛んでいた。
その向こうのグラウンドではサッカー部の部員たちがかけ声に合わせてスパイクを鳴らして走っているのが見えた。
薫は文芸部のドアをノックして部室に入った。
薫が部屋に入ると朋花がページを指で捲りながら一冊の本を読んでいた。
「薫くん。」
朋花は読んでいた本を閉じてそっと部室の机の上に置くと薫を見つめて薫の名前を呼んでくれた。
「小説書いてきた?」
「はい」
薫は平静を装っていたが胸の奥がチクリと痛んだ。朋花はこちらの様子に構う様子もなく薫に手を差し出した。
「読ませて」
薫はカバンから原稿用紙を取り出すと朋花に手渡した。
ほんの数枚の原稿用紙を朋花は真剣な眼差しで読んでいた。
ものの数分もしないうちに朋花は原稿用紙を薫に手渡した。
「うーん。そうだなぁ。。初めての小説にしては合格だよ。60点ってところかな」
薫は嬉しかった。
あまり人に褒められることがなかった薫は朋花の言葉が素直に嬉しかった。
「でもね。これはまだ小説って言えないよ」
「うーん。何て言えば伝わるかなぁ、、」
「小説はリアリティが大事なんだ」
「薫くん。今日、学校までの道のりを歩いてきたでしょ」
「はい」
「何も感じなかった?」
「田んぼの景色が広がってて、、」
「そう!それ!」
朋花は嬉しそうに持っていた鉛筆をくいっと立てた。
「目に見えるもの 聞こえてくる音 町の風景 君が感じたこと。。何でも良いんだ。。」
「今、目の前で起きていることのように書いてみて!」
「絵と同じだよ」
「薫くん。絵は好き?」
「好きです」
「絵だって風景や人物を見ながら構図を決めてデッサンして色をつけていくでしょ。あれと同じだよ」
「他に好きなことは?」
「音楽」
「ふーん。意外だね。何聴くの?」
「いろいろ、、」
「そっか。そっか。」
「何でも自分が好きなことに興味をもってみてね」
「後で必ず自分の為になるから、、」
薫は初めて大きな扉をノックしたような気持ちになっていた。熱く語る朋花の気迫に圧倒されていた。
「知ってる? 物語には必ず生まれてくる意味があるんだよ」
「それに今自分に必要な物語にしか出会えない」
「人も同じ、、君に出会える人は神様に選ばれた人だけなんだよ」
「人は今その人に必要な人にしか出会えない」
薫は朋花が眩しかったー
「よし、それじゃ、そこを意識してもう一度書き直してみてね」
「私。もうちょっと自分の小説の続き書くから先に帰ってていいよ」
そう言って朋花はまた静かに鉛筆を走らせていた。薫は原稿用紙をカバンにしまって部室のドアを静かに閉めた。
帰り道、薫はさっき朋花に言われたことをぼんやりと考えていた。
見慣れたはずの田んぼの畦道やどこからか聞こえてくる微かな音。風の匂いを感じていた。田んぼのずっと向こうには夕日が燃えるように沈んでいてその光景は薫に新鮮な感動を与えていた。
翌日、薫が部室を訪ねると朋花は居なかった。薫は夕方の日の光が差し込む校舎の中を散歩していた。花壇には沢山の草花が植えられていてそのどれもが美しかった。
その向こうのグラウンドではバトミントン部が練習していてシャトルが綺麗な弧を描いて飛び交っていた。何処からか吹奏楽部の演奏が聴こえてきてグラウンドでは野球部がグラウンドを走る姿が見えた。かけ声が響いていて薫には逞しく感じられていた。
不意にサッカー部のボールがポンポンと放物線を描いて薫の前に転がってきた。
「ごめーん。そのボールこっちに投げてくれるー」サッカー部の男子の声が聞こえた。
薫はボールを拾って思いっきりグラウンドに目がけて投げた。ボールは宙を舞ってサッカー部員の前に転がっていった。
「ありがとうー!」
そう言ってサッカー部員はボールを蹴りながらまたグラウンドの真ん中に走っていった。
空気が新鮮でまだ春の名残のある光景が薫にはとても美しいものに感じられていた。
薫は今まで自分が背を向けてきたものがこんなにも美しいものだということに改めて気づかされていた。
「薫くん、、」
ふと横を見ると朋花が驚いた顔をしていた。
「来てたんだ、、」
「はい、、」
すると朋花は薫の横に立ちグラウンドを見つめていた。
「薫くん、、」
「私。この景色、、ずっと一人で見てたんだ、、薫くんが入学するまでの間ずっと、、」
春の風が優しく吹いていて花壇の草花を揺らしていた。
「入部してくれてありがとう、、」
薫と朋花はそれからしばらく二人でグラウンドを見つめていた。夕日が傾いて校舎の時計が17時を周ろうとしていた。
「帰ろっか、、」
二人で田んぼの畦道を帰った。
太陽が沈んでいた。
「ねぇ。薫くん。君はどうして文芸部に入部してくれたの?」
「ずっと一人だったから、、」
「ずっと一人だったから先輩が声を掛けてくれたの嬉しかったんです」
朋花のカバンのキーホルダーが揺れていた。
「薫くん。私が卒業しても文芸部のことよろしくね、、」
「先輩。僕、先輩に出会えてほんの少し小説が好きになれました。」
朋花は嬉しそうに微笑んでいた。
「薫くん。薫くんの夢は何?」
しばらくの沈黙が流れたー
「保育士。保育士になることです」
「保育士になって子どもたちの笑顔をたくさん見たいんです」
「そっか、、」
静かな時間が流れていた。薫にはこの瞬間がかけがえのないもののように感じられていた。
やがて朋花の家の前に着いた。
「また、明日ね、、」
「また、明日、、」
薫は優しい笑顔を浮かべて朋花を見送った。
春も終わりを告げようとしていた。
それから季節は流れ暑い夏がやってきていた。薫も朋花との文芸部の活動になれてきて二人笑って小説のことを語ったりお互いのことを話すようになっていた。
薫も朋花も汗を掻きながら部室で本を読んだり小説を書いたりしていた。
校舎では蝉がうるさいくらいに鳴いていてその姿はまるで短い命の叫び声のようでもあった。グラウンドでは運動部が汗をほとばしりながら走っていて時折、水飲み場に来ては一気に水を飲んでいた。
その日も二人並んで机に座り、黙々と小説を書いていた。不意に朋花が言った。
「出来た。出来たよ!」
朋花は一編の小説を書き上げていた。
朋花は嬉しそうに鉛筆をクルクル回していた。
「ねぇねぇ。薫。これちょっと読んでみて!」
薫は朋花の小説を数ページ読んだ。
「どうだった?」
「何て言うか、、楓先輩を感じるって言うか、、楓先輩らしいっていうか、、」
「そっか。君にしては良いこと言うね」
朋花は終始ニコニコしていて嬉しそうだった。
「この小説、あかつきティーンズ文学賞に応募するんだ。」
「文学賞、、ですか?」
「そう。賞に応募して選ばれたら本になるんだよ!」
「え、出版されるってことですか?」
「そうそう」
「夢みたいでしょ」
「もし、選ばれて本になったら、その時は一番に薫に読んでもらうね!」
「はい」
朋花のテンションは上がっていて薫は意外な朋花の一面を見たような気がしていた。
「それとね。来月、花火大会があるんだけど一緒に行かない?」
朋花は嬉しそうに薫に聞いた。
薫の表情が曇った。
「先輩。あの、、僕。人ごみが苦手でその、、何て言うか、、」
「そっか。それじゃ私の家においで。私の家から花火みよ!」
「はい!」
薫はすごく嬉しかった。
「それじゃ決まりね!花火大会の日、家においでね!」
「はい」
楽しい時間が流れていた。
それから朋花と二人で帰り、朋花は書き上げた小説を町の郵便ポストから投函した。
それからひと月が過ぎた。
薫は待ちに待った花火大会の日がやって来た。町全体にも活気がみなぎっていて、どこかお祭りのような雰囲気が漂っていた。
浴衣姿の男女が町のあちらこちらに見えていて花火のあるお祭りの会場に足を運んでいた。薫も夜になって朋花の家を訪ねた。
夏の夜の風はどこか心地よく、あちらこちらで太鼓の音や笛の音、そして慌しく会場に向かう人の姿があった。
朋花の家に着くと2階に灯りが灯っていた。薫は朋花の店のドアをノックした。
「コンコン。先輩。薫です」
やがて、ガラガラと音がして戸が空いた。 そこには浴衣姿の朋花が笑っていた。
髪を後ろで結んでいてほのかな香りが漂っていた。朋花の髪が少し濡れていて薫は胸の鼓動を感じていた。
「いらっしゃい。上がって。」
「こんばんは。」
古い造りの家は何処か懐かしさが漂っていて一階のお店を通って2階の朋花の部屋に向かった。
薫の胸の鼓動は激しく高鳴っていた。
女の子の家に行くのは初めてのことだった。
ドアを開けて中に入ると畳の部屋に小さなベッドが一つ置いてあって本棚には本が幾つも並べられていた。
ベッドの脇にはぬいぐるみが一つ置かれていて壁にはポスターが貼られていた。
「座って」
薫が座るとコップに入った冷たいお茶が置かれた。麦茶のボトルには水滴が流れていた。
遠くで花火の音が聞こえていた。
「何だか、緊張するね、、」
朋花も薫の横に座った。
窓の外では赤や黄色、青の鮮やかな色の打上花火が上がっていた。
しばらくの沈黙が流れたー
「薫は花火好き?」
「好きです。綺麗だし一瞬で消えてゆくのが何だか儚くて、、」
花火がドンドンと打ち上がる音が聞こえていた。その音はまるで地響きのようだった。 いつもの朋花とは違っていて口数も少なかった。
「先輩。やっと小説書けました。読んでみてください、、」
「読ませて、、」
薫は自分が書いた小説を朋花に手渡した。
微かに朋花の指先が触れていた。
朋花は優しいまなざしで薫の小説を読んでいた。薫にとってその時間はとても長い時間に感じられていた。
やがて朋花は薫を見ると「合格だよ」と一言告げた。
薫は嬉しさと同時に切なさがこみ上げていた。朋花との文芸部の日々が薫の脳裏を走馬灯のように駆け巡っていた。
「先輩、、この小説、先輩が持っていてください」
「先輩に持ってて欲しくて、、」
「ありがとう、、」
朋花は微笑んだ。
その笑顔は泣いているようにも思えた。
「薫、、目を閉じて」
薫は目を閉じた。
朋花の唇が微かに触れた気がした。
「大好きだよ」小さく聞こえた。
秋になり朋花は文芸部を引退した。
薫はあの夏の日以来、文芸部を訪れることもなかった。
校舎にはあちらこちらに銀杏の葉が落ちいて、夕暮れは何処か寂しさが感じられた。
朋花からの連絡はなく、新聞で朋花があかつきティーンズ文学賞を受賞したことを知った。薫はまた高校に入学した時と同じようにひとりぼっちになっていた。
薫は自分の気持ちを押し殺して学校に通っていた。町では朋花のことが「高校生天才新人作家」と騒がれていて薫は朋花を遠い存在に感じていた。小説を書くこともなくなり、また元の日常が薫に訪れていた。
その日、薫が学校から帰っていると不意に薫を呼ぶ声が聞こえた。
「薫、、」
後ろを振り返ると朋花が立っていた。
薫は何も言えなかった。
それから、二人しばらく無言で歩いた。
田んぼの畦道には鈴虫が鳴いていて蛍が命の明かりを灯しながら飛んでいた。
朋花が静かに口を開いた。
「薫。二人の文芸部の日々が何だか昨日のことのように感じるね、、」
「楽しかったなぁ、、」
薫は胸が張り裂けそうだった。
「私。文学賞入選したよ」
「そのことどうしても薫に伝えたかったんだ、、」
「でも何だか少し小説嫌いになっちゃったなぁ、、」
朋花の表情は寂しげで悲しげだった。
「今。出版社から出版のお話頂いて連絡取ってるんだけど私、東京に行かなきゃいけないみたいなんだ、、」
「他にもいろいろと大人の人たちに言われて何だかちょっと嫌になっちゃった、、」
「薫と小説書いてた時が一番楽しかった、、」
秋の寂しい風が吹いていて朋花の髪を静かに揺らしていた。
辺りは真っ暗で夜空には星が輝いていた。
「薫。星の光は気が遠くなるような時間をかけて地球に届くんだよ」
「毎日、幾つもの星が宇宙から消えていて今見えてる星はもうこの世界には存在しない。ってこともあるんだ」
「でもね。悲しいことばかりじゃないよ」
「小説には無限の可能性が秘められていてちょっと宇宙にも似ているかもね、、」
「だから、この先。もし、薫が小説を書くことがあったらその時は時々、私を思い出してね、、」
朋花は薫に一冊の本を持たせた。
『星の王子様』だよ。
薫が将来、大人になったら読んでね。
薫の瞳から大粒の涙がこぼれた。
「薫、、お別れだよ」
朋花の瞳からも大粒の涙がこぼれ落ちていた。朋花はそれだけ告げると薫を見つめてから振り向いて駆け出していった。
薫は駆け出してゆく朋花の姿を見つめることしか出来なかった。薫の手には朋花が渡してくれた一冊の本が握られていたー
それから僕が朋花に会うことはなかった。
翌年の春。朋花は高校を卒業した。
卒業式で朋花は多くの同級生たちに囲まれていてその中から僕を見つけると走ってやって来て一枚の写真を撮った。
朋花は穏やかな表情を浮かべていて「薫。元気でね、、」と笑っていた。
立ち去ろうとする僕を呼び止めて朋花は桜色のレターセットに包まれた手紙を渡してくれた。それから、また同級生たちの元に走っていって僕の恋は終わりを告げた。
きっと、あの夏の日に僕と朋花の文芸部は終わっていたんだと思う。
それから、ひと月ほどして卒業式の日に二人で写った写真と一冊の文庫が送られてきた。
その本は朋花が出版した最初で最後の小説だった。僕は朋花の小説を読むことが出来なかった。朋花の手紙を読んで机の引き出しにそっとしまって朋花の記憶に鍵をかけた。
その後、僕は高校を卒業して隣町の短大の保育学科に進んだ。朋花の居た町の駅を通る度に朋花の笑顔を思い出していた。
駅のホームに電車が止まる度に無意識に朋花の姿を探す自分がいた。
電車の窓から流れてゆく景色は朋花と過ごした青春の日々のようだった。
隣町の駅に着いて改札を抜けて短大までの道を歩く、薫の町より少し大きなこの街は活気に溢れていて商店街やコンビニ、ショッピングモールがあり学生たちの笑顔や笑い声で溢れていた。学校までの坂道を登ると新緑の木々たちが道に影を落としていた。
授業を終えて街の書店に立ち寄った。
その書店は最近、出来たもので街は日々刻々と姿を変えていた。
書店の文庫コーナーに立ち寄った。
多くの本が並べられていて有名作家の本が宣伝プレートの前に沢山並べられていた。
僕は一冊の文庫を探した。
何十、何百と並べられる本の中で一冊の文庫の前で立ち止まった。
その本を手に取った。
綺麗なイラストに飾られたその文庫にはタイトルと懐かしい名前が記されていた。
「楓 朋花」
愛しいまなざしでその名前を見つめていた。一冊しかなかったその本を買って書店を後にした。
青春は短い。足早に過ぎていって気づけばその日々が自分にとってかけがえのないものだと気づかされる。
朋花と過ごした青春の日々ー
そのどれもが輝いていた。
情熱をぶつけ合った日々が昨日のことのように思い出されていた。
電車を降りてあの日と同じ田んぼの畦道を歩いて帰った。
朋花はもう居ない。
夕陽が燃えるように落ちていて虫の音が微かに聞こえていた。畦道には草花が静かに揺れていて朋花の笑い声が聞こえてくるようだった。
朋花、、君は僕に言った。「君に出会えるまでずっと、一人だった」って。。
もし、今君に伝えられる言葉があるとしたら
「僕もそうだったんだよ、、」
人は今、自分に必要な人にしか巡り会えない、、きっと、君は全てを分かってたんだね。あの夏の日、君が渡してくれた一冊の本ー
『星の王子様』を僕はあの後、何度も何度も読んだんだよ。
きっと、あの時の君も同じ気持ちだったのかな、、本当は君に伝えたいこと沢山あったんだ、、朋花、元気でね。
「出会ってくれてありがとう」
「そして、さよなら、、」
君の想い出を抱いて僕はこれからも生きてゆくね。
もう、君の笑顔を思い出すこともなくなったけど何処かで必ず幸せになってね。
「約束だよ」
最後に心からの言葉を君に贈るよ。
「ありがとう。大好きだったよ」
それから三年の月日が流れたー
僕は今、朋花と過ごした高校の文芸部を訪れている。
あの日と変わらない校舎やグラウンドでは春休みにもかかわらず練習に励むサッカー部や野球部が見えた。何処からか吹奏楽部の楽器の音色が聴こえてきていて僕は懐かしさを感じていた。
中庭を通り文芸部へと向かう廊下を歩いた。
廊下には春の優しい日差しが降り注いでいて優しく照らしていた。光の粒が宙を舞っていてその光景は何か神々しいもののように感じられていた。
一歩一歩。あの日の朋花と自分に向かって歩いた。コツコツと足音が鳴り、記憶が巻き戻されていくのを感じていた。
やがて、僕は部室の前で足を止めてドアをゆっくりと開けた。
キーッとドアが軋んで柔らかな日差しに包まれた部室が浮かび上がった。
眩い光が降り注いでいてあの日、朋花と過ごした日々が懐かしく思い出されていた。
朋花の席を見つめた。
懐かしいその席はあの日、朋花が人生で最初で最後の文庫を書いていた席だった。
その席を指で優しくなぞった。
埃が舞ってキラキラと光に照らされていた。窓の外にはあの日と同じように桜がハラハラと儚く散っていた。
僕は自分の席に座りポケットから一冊の文庫を取り出した。懐かしいその文庫に触れて1ページ目を開いた。
あの日の匂いがした。
その文庫はあの日、朋花が目を輝かせて僕に読ませてくれた小説だった。
僕が小説を読んでいると遠くから足音が聞こえてきた。コツコツと一定のリズムを刻むその足音は僕が聞いていた懐かしい足音だった。
やがて、ドアの前で足音は止まり静かに開けられた。
そこには大人の女性になった朋花があの日と変わらない笑顔を見せていた。
朋花は優しいまなざしで僕を見つめていた。
しばらくの沈黙が流れたー
「ねぇ、君。文芸部に入らない?」
「君は読むのが遅いね、、」
「その本、今頃読むなんて、、」
朋花の頬を一筋の涙が伝っていた。
「知ってる? 君に出会えるのはきっと神様に選ばれた人だけなんだよ」
「また会えたね、、」
朋花の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「薫くん、、」
そっと朋花を抱きしめた。
風が吹いて文庫の1ページ目が捲られた。
優しい風に二人は包まれていた。
あの日の二人の声が聞こえていた。
柔らかな光が二人を包み込み窓の外には桜が静かに散っていた。
「ねぇ、君。文芸部に入らない?」
「君に出会えるのはきっと神様に選ばれた人だけなんだよ」
fin