これはきっと、恋じゃない。
15.春を待つひと②
4月に入って、1週間が経った。養護教諭になって2年目の春は、去年よりも落ち着いてはいれたけれど、健康診断やらでバタバタと過ごす日々だった。
保健室は、静かだった。
どこからかまだ下手なうぐいすの鳴き声と、小鳥のさえずりがよく聴こえる。
「春だなぁ……」
窓の外からぼんやりと外を眺める。自然豊かなこの辺りは、桜の木も多い。つい最近開花したかと思えば、もう中心の色が濃くなって散り始めてしまった。風が吹くとはらりと花びらが落ちていくのを、ぼーっと見つめる。
今日は梨花ちゃんは来ていない。とはいえ、教室に行っている様子もない。まあ、春先って色々あるもんね、と思う。
マグカップを持ち上げて、お茶を飲む。
……そろそろ職員室に行かなきゃな。
机の上で散らばった資料をまとめて、職員室へと向かう。廊下の窓から見える生命力溢れる緑の山々は、時々ピンク色が見えた。
授業中の廊下は、足音ひとつ立てるのすら憚られるほど恐ろしく静かだった。できるだけ足音をたてないように歩いていると、向こうから男の人が歩いてくる。すらりと身長が高く足が長くて、紺色のスーツを着ていた。
お客さんかなぁ。
そう思って歩いていると、その人はどんどん近づいてくる。
近づいてきてわかったけれど、着ているのはスーツじゃなくて制服だった。しかも、ブレザー。
うちの生徒じゃない。
ということは転校生? それにしては時期がズレている。遅れて入ってくるような子の連絡は来ていないような。
……まぁいいや。とりあえず職員室行かなきゃ。抱える資料に目を落として歩いているとき、すれ違った。
「――え?」
気がつくと、立ち止まっていた。
すれ違った瞬間に、ふわりと立ちのぼって香る甘い匂い。
――あれから6年も経った。それなのに、わたしはそれを、まだはっきりと覚えていた。
振り返る。
少し開いた窓の隙間から、風が勢いよく飛び出した。腕の中の資料たちが舞い上がる。
――見覚えがある。
光溢れる春の陽光が、彼を照らした。
白い珠のような肌に、細く柔らかい髪の毛が舞う。風に誘われて、甘い匂いがあたりに散る。
息が止まりそうだった。
――王子くんは、風に煽られて飛んでいった紙を、少しだけ背伸びすると白く細い指で掴んだ。
「はい、どうぞ」
目の前が霞んでいく。泣きそうになった。
もう二度と会えないと思っていた。
もう前にみたいに話せないと思っていた。
あれだけ近くにいた王子くんは、もう背中が見えないくらいとても遠いところにいたはずなのに。
「あ、り……が、とう」
でも、わたしの目の前にいるのは、紛れもなく王子くんだった。
高校生のあの頃みたいに、わたしだけに笑顔を向けてくれて。