これはきっと、恋じゃない。


 恋じゃないと言い聞かせれば、叶わないその気持ちも少しは楽になれた。だからわたしは、あれはきっと恋じゃないと信じて、ずっと自分に言い聞かせてきた。

 異性と付き合うたびに、どこかでよぎるその気持ちに知らないふりをしてきた。

 ……でもあれは、ちゃんと、恋だった。

 幼かったわたしたちが、まだ幼いなりに真剣に考えて、それが最善だと結論づけてすべてにピリオドを打った。ただそれだけのこと。

 大きく息を吐いて、しばらく王子くんがいた場所をじっと見つめた。でも、このままじゃだめだと、パソコンに向き直る。

 ……保健だより、書かないと。
 フォーマットを呼び出して、キーボードに手を置いた瞬間だった。

 ガラッと勢いよく、保健室の戸が開いた。
 何事かと驚いてその方向を見ると、ついさっき別れたはずの王子くんが、肩で息をしながらそこにいた。

「――連絡、していい?」

 連絡? なんのこと?
 そう問い返す前に、王子くんは言葉を続けた。

「逢沢さんと、また会いたい。――もっと、話がしたい」

 そしてそれだけ言うと、わたしが言葉を返す前に、王子くんは引き戸を閉めて戻っていった。

「連絡、していい? とは……?」

 残されたわたしは、たったひとり、今し方の言葉の意味を考える。
 
 ――連絡、していい?
 ――また、会いたい。もっと、話がしたい。

 気がついたら、椅子から立ち上がっていた。そして閉じられた引き戸を思いきり開け放ち、廊下に出る。

 早歩きしている、少し小さな王子くんの背中が見えた。

 わたしは、春の新鮮でちょっと青臭い空気をを吸った。そして、足音なんて気にもせずに走った。小さくなって行く背中を追いかける。

 今度は、変わらない。
 背中なんて、自分で追いかけて同じ大きさにすればいい。

「待って!」

 そう言えば、王子くんは立ち止まって振り向いた。
 王子くんの、目の前に立つ。その視線のやり場も匂いも、高校生のころとほとんど変わらない。

「わたしも、連絡してもいい?」

 王子くんは驚いたように、目を丸くした。それでも少しして、その目を細めて笑うとうなずいた。

「これから、またたくさん話そう。逢沢さん」



 偶然ぶつからなければよかった。
 この出会いを憎んだこともあった。

 ……けれど、いまはちがう。
 あのときぶつからなかったら、きっとわたしはなんの夢も持たないまま生きていた。夢を叶える喜びも知らないまま、ただ他人を羨んでいるだけだった。

 だから、いまは胸を張って言える。

 あのとき、あの春の日。
 王子くんとぶつかって良かったと、心の底から言える。


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