カタストロフィ
風邪を引くから、と脱がせようとしていたブラウスを元に戻す。
膝の下と脇の下に手を差し込み、ユーニスは勢いよく立ち上がった。
「うっ」
どうにかダニエルは落とさずに済んだが、先ほど攣ったらしい右のふくらはぎはズキズキと痛む。
右足を引きずりながら、ユーニスは必死で屋敷を目指した。
普段辞書や本を何冊も持つ為、重い物を運ぶのには慣れているつもりだった。
しかし意識の無い人間とは子供でも重たく、あっという間にユーニスの二の腕はパンパンになっていく。
(誰かを呼びたい。でもこの場面を見られるのはまずいかしら?ううん、どうせ屋敷内に入ったらお医者様やメイドを呼ばなきゃいけないんだもの。だったら最初から人がいた方が)
しかし、二人してずぶ濡れであるこの状況はなんて言い訳をしよう。
「フレッチャー先生?それに、ダニエル様!?」
回廊から飛んできた裏返った声に顔を上げると、驚愕に目を見開いたメイド長、ミセス・グリーンヒルの顔が視界に入った。
「ミセス・グリーンヒル、良いところへ。ダニエル様を運ぶのを手伝って頂けませんか?」
「まあまあまあ!お二人ともこんなにずぶ濡れで、一体何があったのです!?」
ツカツカと歩み寄り、ユーニスよりもしっかりとした手つきでダニエルを抱き抱えると、ミセス・グリーンヒルは安酒の匂いに気がついた。
「ダニエル様はジンをお召しに?」
「そのようです。それで、誤って池に落ちてしまい、私が引き上げました」
「なんて事!まったく、もうすぐ学校に行く年だというのに」
顔をしかめるミセス・グリーンヒルに、ユーニスは慌てて言い募った。
「私にも原因が!昼間にダニエル様の学習態度を非難したのですが、必要以上に厳しく言いすぎたのです」
眉を吊り上げ、疑うような顔をするミセス・グリーンヒルにユーニスは目を伏せた。
「先生は」
「はい」
聞きたいような、聞きたく無いような、そんな葛藤を抱いてるような声で、ミセス・グリーンヒルは呟く。
「子供の教育に鞭を使われませんの?」
「っ!」
(知っている!この人は、ダニエル様の体に鞭の跡があるのを!)
「確かに、幼児教育においては躾の一環として鞭を使うことがあります。しかし、私は決して鞭は使いません。子供は小さくとも立派な一人の人間です。調教が必要な獣ではないのです」
ミセス・グリーンヒルは再び驚いた顔をした。
しかし、それに気づくことなくユーニスは訥々と語る。
「それに、鞭で打つなど、己に説明能力が無いと言っているのと同義ですわ。そんな事をしても子供は過ちを学べない。打たれた屈辱感だけが残ります。現に、極東の島国においては子供の躾に鞭は使っていません。それで子供がきちんと育っているのだから、本来なら教育に不必要なものなのです」
「そこまで仰いますか」
「ええ。鞭を持ち出す教師にはろくな人間がおりません。だから私は絶対に使いません」
これは、ユーニスが女学校を卒業し、女家庭教師として働き始めた頃から心に決めていたことである。
「フレッチャー先生、ダニエル様のお部屋に着きましたわ。お入りください」