カタストロフィ
「サラッと流していたけどさ、ユーニスって女性なのに泳げるんだよな」
過去を詮索しないという約束に引っかかるかもしれないと危惧しながら、ダニエルがおずおずと切り出した。
季節は6月も半ばを過ぎ、すぐそこまで夏が来ている。
その日、スイカズラが甘く香るイングリッシュガーデンのガゼボに、二人はヴァイオリンを持ち込んで来ていた。
「子供の頃、海辺に住んでいたのよ。成り上がり男爵の娘だった私には貴族の友達がいなくて、いつも遊んでいたのは近隣に住む平民の子ばかりだった。中でも漁師の子が多かったから、泳ぎを教えてもらったの」
「よくお母上が許したな」
「母は貴族の生まれではなかったから、その辺はまったく気にしなかったのよ。両親が死ぬまでは、貴族の子供としてはかなり自由に育てられた方だと思うわ。さあ、それよりもそろそろ再開しましょう。ヴァリエーションⅩがあまり上手く出来なかったから、そこから」
唐突に会話を切り上げるユーニスに逆らうことなく、ダニエルはヴァイオリンを手に取った。
ユーニスは過去の全てを隠したいのではなく、ただ深入りされたくないだけなのかもしれない。
ここ最近、ダニエルはそう考えるようになっていた。
(当たり障りの無い部分だけを話しているんだろう。背中にあんな傷があるんだ。少女時代に苦労したのは話さなくたってわかる)
「ダニエル、ちょっと音色がきついわ。もっとゆったり弾いて。呼吸も浅くなってる」
パガニーニの奇想曲、それも24番は好きな曲のはずなのに、いまいち集中しきれない。
一応ユーニスの指示に反応し、即座に音色を切り替えてはいるが、視線はあらぬ方向を向いたままだ。
心ここにあらずなのは、ダニエル自身が強く自覚していた。
(いきなり服を脱ぎ始めた時は頭が真っ白になったけれど、あの傷を見て良かった。あれがなかったら、こんな風に話したり出来なかった)
どんな言葉よりも信じられるものを見せてもらい、その日からダニエルはユーニスに敵意を抱かなくなった。
心から信頼したり、打ち解けるのはまだ難しいが、それも時間の問題だろう。
「まったく集中していないのにパガニーニをきちんと弾けるなんて、器用な子ね」
呆れたような、面白がるようなユーニスの声で現実に引き戻され、ダニエルは唇を尖らせた。
「僕だって集中したい」
「何か考え事?」
「うん。でも内緒」
「そう」
淡く微笑んだだけでそれ以上は聞かないユーニスに安らぎを覚え、ダニエルは再び上の空になった。
ユーニスの立場が女家庭教師から友達に変わっただけで、信じられないくらい平和な日々を送れている。
(でも、いつまでもこのままでは居られないんだよな。いつか僕たちは師弟関係に戻らなければならない日が来る)
元に戻すタイミングを一任されているのを思い出し、ダニエルは少し憂鬱な気分になった。