カタストロフィ


「ミセス・グリーンヒル、ダニエル様と街まで出掛けて参ります。馬車の用意をお願いします」

「かしこまりました。あの、フレッチャー先生」

「なんでしょう?」

呼び止めたは良いがどう切り出せばいいかわからない。

そんな態度で言葉を探す彼女に、ユーニスは思いつくままに尋ねてみた。

「ダニエル様のことでしょうか?」

「ええ、そうです。最近はいかがお過ごしでしょう?先生がお怪我をされてから、酷い悪戯はしなくなったようですが……」

初老のメイド長の瞳が心配げに揺れているのを見て、ユーニスは密かに心温まった。

父親も母親も基本的に側には居ない、そして人と距離を置くダニエルにとって、ミセス・グリーンヒルのように身を案じてくれる大人は貴重なのだ。

(こんな風に心配してくれる大人がいるなんて、羨ましいわ)

自分は決して持ち得なかったものを見て、少しだけ胸の奥がチリチリと焦げる。

だが、ユーニスの心の内では、嫉妬よりも羨望よりも、彼を育てる者としての喜びが優った。

「恙無くお過ごしです。実は、今日はこれから街の貸本屋まで本を借りに行く予定なのです。大好きなデュマの作品を教材にして、フランス語を勉強するんですよ」

「まあ、ダニエル様が……」

じわりと目尻に滲んだ涙を拭い、ミセス・グリーンヒルは嗚咽を漏らした。

「ようございました。あの鬼のような女家庭教師(ガヴァネス)に虐げられ、一時期はどうなるかと……」

(やっぱり、ダニエルの背中の傷は女家庭教師(ガヴァネス)がつけたのね)

薄々わかってはいたことだが、はっきりそう告げられるとユーニスはどうしようもない怒りを感じた。

「先生、お願いがあります」

「なんでしょう?」

「ダニエル様の事をよろしくお願い申し上げます。一介の使用人に過ぎない身の上で、このような事をお願いするのは差し出がましいかとは存じますが、なにとぞ」

(ああ、やっぱり羨ましいわ)

ほんの少しだけまた胸が熱くなったが、ユーニスはそれを飲み込んで晴れやかに笑った。

「お任せください。私が、立派な紳士にお育ていたします」

そのあとも何分か雑談をし、馬丁を呼ぶために厩へ向かったミセス・グリーンヒルを見送る。
すっかり彼女の姿が見えなくなってから、ほんの一瞬だけユーニスは表情を崩した。
思い出したく無い過去の記憶の数々が唐突に蘇り、心を蝕んでいく。

(羨ましいと思う気持ちを否定しちゃダメ。自分に嘘はついちゃダメよ。落ち着きなさい、ユーニス。貴女はもう立派な大人よ。それに、男性優位のこの社会で身を売ることなく立派な仕事をして稼いでいるわ。特に今回なんか100ポンドの年収よ)

それこそさっきのミセス・グリーンヒルではないが、一介の使用人に過ぎない身の上には不似合いな額の報酬だ。
それだけの大金を貰えるほど、女家庭教師(ガヴァネス)としての信頼と実績を積み上げてきたのだ。
働く女性に対して世間は冷たいが、ユーニスは自分で稼げる事に誇りを持っていた。

(ここに来るまで誰も助けてはくれなかったけれど、それでもどうにかなってきたのよ。人を羨むより、自分が得てきたものを大事にしなければ)

何度か深呼吸を繰り返し、自身の心の奥底に眠っていた自尊心を引き上げる。
平静さを取り戻せたと実感してから、ユーニスはダニエルを迎えに行った。

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