カタストロフィ
「いらっしゃいませ、ダニエル様。お待ちしておりましたよ」
貸本屋のカウンターにいたのは、いかにも好々爺といった風情の店主一人だけであった。
ダニエルはここの常連らしい。
「モンテ・クリスト伯以外に僕の好みに合いそうなものは入った?」
「残念ながら、ダニエル様のお好みのジャンルは……しかし、まだ手をつけていない本もけっこうあったと記憶しておりますぞ。そちらの麗しいご令嬢と本棚を見てお待ちください。ただ今新しい本をお持ちしますので」
地味な服装だが輝くばかりの美貌のユーニスを見て、店主は彼女を貴族の令嬢と勘違いしたようだ。
「はじめまして、ダニエル様付きの女家庭教師のユーニス・フレッチャーです。モンテ・クリスト伯ですが、原文のフランス語版もお願い出来ますか?ダニエル様のフランス語の教材にしたいのです」
「なんと、女家庭教師の方でしたか!いやはや、あまりのお美しさにどこかの令嬢かと……かしこまりました、ではダニエル様、ミス・フレッチャー、少々お待ちくださいませ」
気まずそうな店主に、気にしていないという風に笑いかけ、ユーニスは店の壁一面にぎっしり詰まった本を物色した。
「ここの貸本屋、品揃えがいいわね。絶版になった本もかなりあるわ」
シェフィールド家の屋敷にも、一応図書室はある。
しかし、本の数は圧倒的に少ないし、ダニエルの興味を惹くようなジャンルのものが一切なかった。
その為、ダニエルはよくこの貸本屋に来るらしい。
「この辺の棚の本はまだ読んだことがなかったな」
「どれどれ?」
何気なくダニエルが手を伸ばした先にあったのは、いわゆる発禁処分を受けた本のコーナーであった。
ダニエルが手にしたその中の一冊は、ユーニスの知っているものだった。
(マシュー・グレゴリー・ルイスの〝マンク〟だわ!あんな本、子供に読ませたらいけない!)
「ダニエル、それはあまり面白くなかったから他の本の方が良いと思うわ」
どんな内容かを教えたくないためソフトな物言いになってしまう。
だからか、ダニエルはユーニスの言葉を受け流して本棚から抜き取った。
「ユーニスにはつまらなくても僕は面白いと思うかもしれないよ」
「面白くない、っていうより悪趣味なのよ。とにかくそれはダメ」
性行為に加えて殺人に強姦と、子供には読ませたくない要素が山盛りの一冊なのだ。
ユーニス自身、好奇心から読んで後悔したくらいである。
しかし、ダメと言われればそれを侵したくなるのが人の性というもの。
必死で本棚に戻そうとするユーニスを見て、ダニエルはこの本は子供には見せられない類のものだと勘づいた。
「そんな風に隠そうとされたら余計気になるよ!」
「いいから、棚に戻して!」
焦りから、ユーニスは咄嗟にダニエルの手首を掴んだ。
その瞬間、彼の空色の瞳は大きく見開いた。
「触るなっ!!」
ありったけの恐怖と敵意がこもった叫びを投げつけ、ダニエルはユーニスの手を力一杯振り払った。
瞳孔が開き、こめかみから汗を吹き出し、歯をガチガチと鳴らす様子は尋常ではない。
「ごめんなさい、約束を破ってしまって」
こんな時だからこそ、冷静にならなければ。
呪文のように自分にそう言い聞かせて、ユーニスは静かに謝罪した。