カタストロフィ




フランス語にある程度慣れてきたところで、ダニエルはイタリア語とラテン語もユーニスから学ぶようになった。
そして語学だけではなく、長年苦手だからと放置してきた数学の勉強も再開した。
シェフィールド家に来てからようやく女家庭教師(ガヴァネス)らしい仕事が出来ると喜んでいたユーニスだが、その一方でダニエルの心境の変化に戸惑いもした。
そんなユーニスの疑問を解消したのは、ダニエルが差し出した一冊の本である。

「《純正作曲の技法》か……キルンベルガーの教本ね」

「知ってるの?」

「タイトルだけなら。読んだことはないわ」

「バッハの作品の理解に役立つよ。ただヴァイオリンを弾くだけじゃなくて対位法もわかっておいた方が良いと思って読み始めたんだけど、中々奥が深い。読み終わってからようやく、音楽を理解するのに数学的な素養が必要だって実感したんだ」

「なるほどね」

しっかりとした音楽教育を受けたわけではない為、ユーニスの持つ対位法の知識は初歩的な段階で止まっている。
それでも、触りの部分しか学んでいない彼女でもダニエルの言うところの〝数学的な素養の必要性〟が理解出来た。

対位法を学ぶに辺り、まずは基本的な音の進行パターンを覚える必要がある。
このパターンを公式化して音に当てはめるため、数学に慣れている者はより効率よく対位法を学べるのである。

「ちなみに、どこまで勉強したの?」

「一次方程式の記憶があやふやだから、多分それくらいのレベル」

「あら、想像していたよりはマシだったわ。そうね……明日から、午前中は数学の時間にしましょう。語学はランチの後ね」

「よろしく。そうだ、もうすぐ父上が戻って来るんだ。来月には母上も療養地から戻って来る。それから、兄さんたちも」

8月も半ばに差し掛かり、社交シーズンも終わりが近づいていた。
シェフィールド伯爵は一足早く領地に戻ることにしたらしく、来週には帰ってくるらしい。

「毎年、シーズンが終わったら親族だけの晩餐会をやるんだ。今年は食後に一曲弾くことになっているし、色々今後の事も話さないといけないだろう。父上達に会うまでに、少しでも教養を身につけておきたい」

「焦ったところで一朝一夕で身につくものではなくってよ。でもそういう事情があるなら、授業の時間を少し長くしましょう」

動機がなんであれ、勉学に励むのは良い事だ。
ダニエルの学びの幅は少しずつ広がり、着実にパブリックスクールに行けるレベルに近づいている。
教え子が成長している喜びを噛み締め、幸せに浸っていたユーニスだが、何か言いたげなダニエルの様子に気がつき意識を切り替えた。

「どうかしたの?」

「え?」

「何か言いたいことでもあるのではないかと思って……目で訴えかけてくるんだもの」

「ああ、違う違う。少し考え事をしていただけ」

あからさまに目を逸らすダニエルに、ユーニスは呆れつつも追求をやめた。
河岸で互いの過去を告白し合った時から、二人の間の壁はかなり薄くなった。
しかし、完全に取っ払うのは無理だったらしく、たまにダニエルは一人思案に耽る時がある。
それにしても、最近は考え込む時間が多くなった。

(相変わらず誤魔化すのが下手ねえ。貴族の子弟としては致命的な欠点だわ)

ダニエルの率直さは、成長するにつれ彼の人生に不利になっていくものだろう。
彼の性格を考れば、ヤンガーサンに生まれてきて良かったのかもしれないとユーニスは考えた。


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