カタストロフィ

(ちょっとだけ、軽く見てみるだけよ)

誰にかわからない言い訳を心の内で並べて、ユーニスは中庭への入り口であるアーチをくぐった。

アーチに巻き付いている薔薇の芳醇な香りが鼻腔をくすぐり、ユーニスの表情が自然と和らぐ。

迷路になっている生垣と、植えられている夏の花たちを楽しんでいると、どこからともなくヴァイオリンの音が耳に入ってきた。

(バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番だわ。誰が弾いているのかしら?)

技術はあるが、行き場の無い怒りや悲しみを叩きつけているようなきつい音色だ。

バッハを弾くには不似合いな音だが、どれだけ禍々しくとも粒の揃った音であることから、演奏者の技量の高さがわかる。

(何があったのかしら。相当荒れているわ)

迷路が出口に差し掛かる頃、パステルカラーの花を基調とした花壇に囲まれた白いガゼボが現れた。

ガゼボの中には、10歳くらいの少年がいた。

ハニーブロンドの髪、鮮やかなブルーの瞳の、目が覚めるような美少年である。
ミルク色の肌はうっすらと薔薇色に輝き、まさに天使のような容貌……と言いたいところだが、端正な顔立ちは表情がまったく子供らしく無いため、大きな違和感がある。

よく見ると、彼の瞳には光がなかった。
夏の空のような淡いブルーの双眸が、不意にこちらを見据えた。
真正面から目が合ったその時、彼の唇からその顔には不似合いな低い声が漏れた。

「新しい女家庭教師(ガヴァネス)か?」

服装や年齢から鑑みて予想はしていたが、やはり彼がダニエル・シェフィールドのようだ。
思わぬところで初対面となったが、ユーニスは冷静に淑女の礼を取った。

「はい。ユーニス・フレッチャーと申します。これから二年間、貴方にお仕えします」

「ふうん」

ダニエルに返事は興味なさげであるが、視線は頭のてっぺんからつま先まで何度も彷徨う。

「その顔でねぇ……週に何回、父上の寝室へ行くんだ?」

11歳の子供とは思えない生々しい発言に、ユーニスは目が飛び出そうになった。

「は?」

女家庭教師(ガヴァネス)がこんなに目立つ容姿なわけないだろう。屋敷内に愛人を堂々と置くために父上がそういう扱いにしたと思ったんだけど。それとも、本当に教師なの?だとしたらどうやって内定をもらった?シェフィール家の採用基準は他家よりも厳しいと聞く。顔が良いだけの女じゃ、まず採用されない」

矢継ぎ早に繰り出される言葉のあまりの酷さに、ユーニスはふつふつと怒りがわいてきた。

(さっきから聞いていればなんなのよ!)

淑女らしからぬ罵倒はどうにか心の内にとどめたが、そろそろ喉から出そうである。

「面接の時に身体を許したんだろ。そうでなければ、お前のような女が雇われるはずがない」

あ、限界。
そう思った瞬間、ユーニスはダニエルに足速に近づいていた。

そして間髪入れず、ビロードのごとく滑らかな頬を強かに打っていた。
殴られたダニエルはというと、自分が何をされたのか思考が追いついていないらしく、口をポカンと開けている。
しかし殴られたと認識するや否や、頬にサッと赤みがさした。

「お前、使用人の分際でよくも!」

最後まで言い切らないうちに、ユーニスはもう一度ダニエルの頬を打った。
それも、一回目よりもかなり強めに。

「お黙りなさい」

ドスの効いた声で一喝して見下ろせば、ダニエルの瞳はわずかに揺れた。

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