カタストロフィ
かすかにキィッとドアが軋む音がしたが気にせず伴奏を続けていると、メアリーの歌声に耳慣れぬ声が被った。
Sospiro e gemo senza voler,
palpito e tremo senza saper.
(自ずとため息が出て嘆いてしまうのです。勝手に心がときめいて、体が震えてしまうのです)
Non trovo pace notte né dì,
ma pur mi piace languir così.
(夜も昼も安らぎが見出せないのです。でも僕はこうして悩んでいるのが好きなんです)
その朗々たるハイバリトンの声の主はまだ少年なのだろう。
幼さが残りつつも、子供とは言い切れない、まさにこのアリアを歌うケルビーノくらいの年頃。
もはやメアリーは歌っていなかったが、突如現れた闖入者のためにユーニスは伴奏を弾き続けた。
彼はそれを当然の如く受け、見事最後まで歌い切った。
後奏を弾き終え、期待に胸を膨らませて顔を上げる。
目の前の少年の真空色の瞳は、ユーニスがよく知るものだった。
「ご無沙汰しています、先生」
たった一言だが、その言葉には万感の思いがこもっていた。
記憶にあったより遥かに背が伸びて、顔立ちも男性らしくなった愛弟子の姿に、ユーニスは目を細めた。
「おかえりなさいませ、ダニエル様」
自分の声がどこか遠くに聞こえる。
ゆったりと立ち上がったユーニスの足どりは、硬い地面では無く雲でも踏んでいるかのようにおぼつかなかった。
ダニエルがパリ音楽院を主席で卒業したという知らせが来たのは、確か去年だった。
そして程なくして、スカラ座のオーケストラのコンサートマスターに最年少で就任したと続報が入った。
リサイタルデビューもし、その出自と美貌も相まっていまや社交界の華である。
数々の功績を残して生家に帰還した彼は、もう17歳の青年であった。
「お兄様、今日がお帰りだったなんて!いきなり入ってきて歌い出すものだからびっくりしちゃったわ」
もう、と頬を膨らませるメアリーに、ダニエルは小さく笑った。
「ごめんごめん、驚かせたかったんだよ」
およそ6年ぶりに会ったダニエルは、ユーニスの記憶の中の彼とはかなり違う。
成長期真っ只中なのだから、顔立ちがシャープになるのも手足が長くなるのも当然だ。
だが、それとは違う、外見だけではない何かが変わった。