カタストロフィ
もう一つアマレッティを齧りながら、ユーニスはまだ見ぬ異国に思いを馳せた。
悠久の歴史を感じさせる古都ローマ、アドリア海に面した水の都ヴェネツィア、メディチ家が君臨しルネサンス期に最盛期を迎えたフィレンツェ、温暖で風光明媚なナポリ。
そして、現在ダニエルが活動拠点としているミラノ。
「きっと気に入るよ。美味しいものだけじゃない、素晴らしい美術品や見たこともない絶景だってあるんだ。ユーニスならあの国を好きになるさ」
「ふふ、引退したら海外旅行に行くのも良いかもしれないわね。ここのお給金は破格だから、このままコツコツ貯金すればヨーロッパ一周くらいなら出来そうだわ」
この屋敷に来てから、もう6年の月日が経った。
メアリーを社交界デビューさせるまで、あと3年か4年はかかるだろう。
シェフィールド家を出た後、引き受ける生徒はせいぜい3人が良いところだ。
50歳になる前には引退し、この国を出てあちこちを旅する。
そして帰国後には小さなアパートに住み、慎ましく余生を過ごす。
そんな老後を想像し、ユーニスは頬を緩めた。
普通ならば夢物語でしかないが、今のペースで稼げたら充分に実現可能だ。
なんて贅沢な老後だろう。
「その時は僕に案内させて。ヨーロッパの主要都市ならほとんど周ったから、地理には詳しいよ」
「あら、頼もしいわね。でもよく考えてごらんなさい。私が引退するのに少なくともあと20年はかかるわよ。その時貴方は36歳で、一番働き盛り。のんびり旅行なんかしている余裕は無いのではなくって?」
「時間なら作るさ。仕事抜きでの旅行なんて中々出来ないものだし」
ふと沈黙が降りたその時、ユーニスはダニエルの顔を盗み見た。
柔らかな曲線を失い、大人に近づきつつあるその顔には、出会った頃のように歳に似つかわしくない疲れが浮かんでいた。
「忙しいと知ってはいたけれど、きっと私が想像していた以上だったのね。ダニエル、かなり無理をしているんじゃない?成長して体つきが変わったといっても、痩せ過ぎだわ」
「そりゃあね、この歳でコンサートマスターだ。しかも僕の出自は一般的な音楽家とは違うものだし、常に浮いていた。でも、そんなに苦労しただなんて思っていないよ。自分で選んだ道だし、早く大人になりたかったから」
飲み終えた紅茶のカップをテーブルの奥に押しやり、ダニエルは音もなく立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ僕は行くよ。メアリーの部屋に寄ってお土産を渡してやらないと。自分だけ食べ損ねたって知ったら、きっと機嫌を悪くするから」
「あら、もう行くの?」
顔を合わせるまではあれほど気まずいと思っていたのに引き止めるような言葉が出て、ユーニスは混乱した。
確かにメアリーに指摘されてから、ダニエルの変化が気になっていた。
しかし、今自分が出した声は一体なんなのか。
この媚びるような、甘えるような声は。
「他にも用事があるから。あ、ちょっとじっとしていて」
ダニエルの細い指先がユーニスの耳たぶを掠った。
たった一瞬触れたそこはじんわりと熱を帯び、やや遅れて強烈な甘い匂いに気づく。
「この匂いは……?」
「カシアの花。見た目は地味だが、長い間香りを楽しめる。捨てずに持っていて」
おもむろにユーニスの髪を撫で、毛先を軽く指に巻き付ける。
そしてそこに軽い口づけを落とし、ダニエルは真正面からユーニスを見つめた。
睫毛と睫毛の間すら見えるほどの至近距離で見つめ合った刹那、ダニエルは何も言わずに背を向けて応接間を出て行った。