シンガポール・スリング

やっぱり海外ともなると違うのね。

未希子は少し興奮しながらバスタブにアスプレイのシャワージェルをたらし、勢いよくお湯を入れた。
E-チケットと一緒に入っていたアイテナリーに書かれているホテルを見て、未希子は最初軽くめまいがした。会ってほしいと言われ、勝手に国内、あえて言えば都内だと思っていた未希子だったが、まさかこんな展開になるとは予想もしていなかった。そして、宿泊場所があの五つ星ホテル、リッツ・カールトン ミレニア シンガポール ―――。
“人はすぐその環境に慣れる”と聞いたことがあるが、この極上の客室グランドマリーナは未希子を甘く酔わせるのに時間は必要なかった。

あ・・・ジャケット。

あの男の人から受け取ったジャケットを着たままだということにその時初めて気づいた。

返しそびれちゃった・・・。

でもレセプションに預けておけば、きっと取りに来るわよね。
どのくらいかかるかわからないけど、やっぱりちゃんとクリーニングに出して返したいし。

それにしても・・・

やっぱり海外ともなると違うのね。
誰に聞かれているわけではないものの、未希子はもう一度同じ言葉を呟いて、ジャケットを椅子の背にかけた。男性のスーツなんて着たことがない未希子でもこのジャケットの生地が一流品だというのはすぐに分かった。そっとジャケットの襟の部分をなぞる。
あまりにもスマートに手を差し伸べてきた男性に未希子は自分が映画のワンシーンに迷い込んだ錯覚に陥った。
外国にいるからか、余計にロマンチックな出会いに感じてしまう。
それにあの整った顔立ちはじっと見たらおこがましい感じすらあった。
泡風呂に足を入れ、冷えた体を温めながら、未希子は彼の顔を思い出そうとしたが、くっきりと輪郭を思い浮かべることはできなかった。
それもいいかもしれない。
頭の中に浮かんできた残影をベースに未希子は勝手に想像を膨らまして楽しんだ。
泡風呂なんていうのも人生で初めて経験したこと。未希子にとってシンガポールでの経験は初めての連続だった。

五つ星ホテルに泡風呂、ベンツ・・・そして見知らぬ極上の男性。

しかし、未希子にはやらなくてはならない使命があった。

――― 老婦人、優美さんのお孫さんに会うこと。

考えたとたん、今までの素敵な経験が全てダメになってしまう気がして未希子は頭を強く振った。とりあえず、アイテナリーによると明日のお孫さんとのランチのために今日の夜、スパが予約されているとのこと。優美さんがせっかく用意してくださっているのだからと何度も自分に言い聞かせてはみたが、アイテナリーを順に追うごとに未希子の緊張は増していくばかりだった。

封筒に入っていたシンガポールまでのE-チケット、ホテルの宿泊、そして、アイテナリー。あまりにも用意周到に準備されているのを見て、未希子は苦笑せずにはいられなかった。おっとりした感じでいつも来店されていた優美さんだったが、案外キャリアウーマン的なところがあるのかもしれない。

突然室内の電話が鳴り、未希子はバスタブの横にあるバスタオルに手を伸ばした。

――間違い電話かもしれない。

このままちょっと待っていたら電話は鳴りやむだろうし。そうやって電話に出るか出ないかを悩んでいるうちに電話は鳴りやんだ。
鳴りやんですぐ、「あ・・・もしかして返しそびれたジャケットのこと?」と思い、やっぱり電話に出ておけばよかったと後悔していたところ再び電話が鳴りだした。
今度はバスタオルでさっと体を拭いて、横にあったバスローブを羽織って、電話に出た。

「H・・・Hello?」
「Good afternoon, Miss Kawamoto. This is Front desk.
Madam Lin is at the reception and she would like to talk to you. Is it OK?」

エクスキューズ ミー? マダム・リン?

何となく理解できた英語だが、フロントデスクが言うマダム・リンなる人間を知らなかった未希子は困惑し人違いだと告げたが、相手の方は知っているようですよと言われ、仕方なくイエス・プリーズと言って電話を受けた。

「・・・あ、未希子さん!私、優美よ。無事に着いていてよかったわ。」

ワンテンポ置いた後、電話の向こうから聞き覚えのあるおっとりとした声が聞こえてきた。

「ゆ、優美さん!マダム・リンって優美さんのことだったんですね。すみません。今、フロントデスクにいらっしゃるんですか?」

「ええ、私も明日のためにここに宿泊することにしたの」

優美の話しぶりからしてかなり気合が入っているらしい。

「シンガポールに来る前にもう一度カフェの方に顔を出されるかなとも思ったんですが。連絡先もわからなくて・・・」

「ごめんなさいね。バタバタしていて。私もあとから携帯番号でも聞いておけばよかったと思ったのよ」

「・・・こんなに素晴らしいホテルを予約してくださってどうお返しすればいいのか」

「あら、お返しなんて考えないでちょうだい。これはいつも親切にしてくれたり、犠牲を払ってまで私の孫に会う時間を割いてくれた未希子さんへの感謝の気持ちなんだから」

それにね、こんなんじゃないのよ。明日は大忙しなんだから。

楽しみで仕方ない様子が優美の声から伝わってくる。

「未希子さん、これからお時間ある?」

未希子はベッドの上にあった携帯に手を伸ばして、時間をチェックすると4時半だった。
8時にスパに行く以外特に用はないし、夜はホテル内のコロニー・ベイカリーで買ったヘイゼルナッツブリオッシュとオレンジジュースと考えていたので、時間は十分にある。それにもしものために優美さんの携帯番号も聞いておきたい。

「アイテナリーに8時からスパの予約がありますがそれまでは大丈夫です。すみません、急いで着替えるので10分だけ待っていただけますか?」

「あら、また急かしちゃっているのね。気にしないでゆっくり降りてきてちょうだい。私はチフリーでお茶でもしているから」

ゆっくりしてねと優美は念を押して、電話が切られた。
それでも未希子は急いでクローゼットの所に行き、リネンのドレスに手を伸ばした。
どんなドレスを着ていけばいいのかわからず、とりあえず2着だけキレイ目のサマードレスを持ってきた。一枚はこの黄色いリネンのサマードレス。そして、明日のランチ用として買ったブルーグレーのレースのパーティードレスだ。
リネンのドレスはシンプルなノースリーブのマキシ丈ワンピース。
ボリュームのあるワンピースだからゴテゴテしたアクセアサリーはいらない。
グレーのスカーフを首に巻いて、サッとオレンジピンクの口紅を塗って肩までの長さの髪をざっくりまとめた。
急いで三階へと降り、優美と合流する前にフロントデスクにジャケットのクリーニングをお願いし、事情を話して仕上がったジャケットをフロントデスクで預かってほしいと頼んだ。クリーニング代を聞いて一瞬クラッとしたが仕方ない。確かドアマンがミスター・リンと言っていた。彼は名の知れた人なのか、もしかしたらこのホテルに宿泊しているのかもしれない。そう思ってもリンさんと言う方かもしれませんと怪しい情報も付け加えると、フロントデスクは未希子の顔を一瞬見た後、ジャケットを確認し、確かにお預かりしましたと笑顔で答えた。


・・・・・・
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