シンガポール・スリング

紅茶のカップを手にしながら、優美はチフリーラウンジで寛いでいた。
いつもの人間観察を始めていたところ、チフリーのサブマネージャーで顔見知りのアマンダと目が合った。
アマンダはここチフリーラウンジで10年以上働いているベテランで、優美がシンガポールに足を運ぶときには必ずアマンダが優美の担当をしていた。

「奥様、ご無沙汰しておりました」

「ありがとう。アマンダも元気そうね。実は私の孫も今ここに宿泊しているのよ」

「存じております。いくつかのシンガポールのIT産業に投資されているとか。年末、当ホテルで行われるITシンポジウムにも出席されると伺っております」

「そうなのね。私は何も知らないから、あなたから孫の情報をゲットしないと」

優美はそう言って首をすくめたが、家族であるのにいまだに孫がしていることに関してあまり理解していないため、少し悲しくも感じていた。

「Mrリンと待ち合わせですか」

「違うの。実は孫に会わせたい人がいてね。今日はその作戦会議ってところなの」

優美は紅茶を口に入れて、嬉しそうにほほ笑んだ。

アマンダはすぐにそれが女性であることを察知したと同時にこれは一大事だと頭の中で叫んでいた。もちろん表情は全く変えずに。
Mrリンはシンガポールのゴシップ記事にも時々登場するほどの人気があり、シンガポールの女優と関係があるだの、先日はイギリスの侯爵令嬢とのディナーをスクープされたり噂が絶えない。しかし、今回はMrリンの祖母である、マダム・リンが言っているのだ。これはその辺のゴシップニュースとはわけが違う。アマンダは気を引き締めにっこり笑うと、それは楽しみですね、と当たり障りのない返答をした。

「未希子さん!こっちよ」

優美はきょきょろ辺りを見回していた未希子さんに片手をあげて声をかけた。

「優美さん、お待たせしました。遅くなってすみません」

「全然気にしないで。そうだ、未希子さんに紹介したい人がいるのよ」

そう言うと、傍で接客していたスタッフの顔を見上げた。

「アマンダ、こちらは未希子さん。わざわざ日本から来ていただいたの」

「はじめまして。河本未希子と申します」

「こちらこそ。私チフリーラウンジのサブマネージャーを努めさせていただくアマンダ・チェンと申します。当ホテルをご利用していただき、またチフリー・ラウンジに足を運んでいただきありがとうございます。こちらでのご滞在で何か不自由な点等ございますでしょうか」

マダム・リンが話していた“会わせたい人”というのが未希子のことだとすぐに気づき、アマンダは背筋をピンと伸ばし、リッツが誇りとしている最高級のおもてなしができるよう微笑みかけた。

「いえいえ!こんな素敵なホテル初めてで夢の世界にいる気分です」

「それはありがとうございます。何かありましたら、私は常時チフリー・ラウンジにおりますので、お声がけくださいませ」

そう言って一礼すると、静かに席を離れた。

「未希子さん、そのドレスとっても素敵よ。肌が白いからかしら。黄色がとっても似合ってるわ」

「ありがとうございます。こういうホテルではどういった服がいいのかわからないので本当に迷います。明日の服も一応持ってきましたけど、ドレスコードとかわかりませんし」

フフフ。実は未希子さんを連れていきたいところがあるのよ。夕食前にちょっとだけ。ね?
そういうと、優美は未希子さんの腕を取った。まるで友達のように未希子の腕を組み優美は上機嫌だ。未希子は男性はもちろん、女性ともこうやって腕を組んで歩いたことがないのでびっくりしたが、あまりにも嬉しそうな優美の顔を見ると、このままでもいいかという気になった。
ホテルの正面に来るとベンツのリムジンが止まっていて、ドアマンがサッと車のドアを開けた。

「え?これに乗るんですか」

「乗り心地は案外いいのよ」

「それはもう・・・」

未希子は一時間ほど前に乗ったベンツと同じような車を見て、シンガポールではこの車種が人気なのだろうかと思っていたが、優美がこれはリッツ・カールトンのリムジンだと説明した。

「え!?そうだったんですね。てっきり個人の車かと」

「あら、もう乗車したのね」

「ええ・・・たぶんですが」

ただ、あの時は未希子もかなり動揺していたので、ベンツだというのは覚えていたがリッツカールトンのリムジンかまでは覚えていなかった。やっぱり、あの人もこのホテルに宿泊しているってこと?

「実は今日の午後、スコールにあってその時に声をかけてくださった日本人の方がホテルまで送ってくださったんです」

「あら、大丈夫だった?今日のスコールはかなりひどかったけど」

「インターネットで調べればすぐにわかることなのに、気を付けなかった私がいけないんです。びしょ濡れでどうしようか途方に暮れていた私に声をかけてくれてジャケットを貸してくださって、ホテルまで送っていただいたんです」

「まぁ!王子様みたいじゃないの!」

本当に、王子様みたいな人でした。でも私ったら恥ずかしくって彼のジャケットを着たままホテルに駆け込んでしまって。どこの誰かもわからないんです。未希子はにっこり笑いながらもう一度彼を思い浮かべようとしたが、やはりはっきりとは思い出せなかった。

「まるでシンデレラの逆バージョンみたいだわ!ガラスの靴を落としたシンデレラじゃなくて、ジャケットを手渡したまま、名乗らない王子様。わぁ~そういうロマンチックな話、私、大好きよ。でもそんな素敵な出会いがあったら、うちの孫なんて眼中にさえ入れてもらえないじゃないの」

優美はだめだめと言いながら未希子の腕にかじりついた。

「うちの孫はそういうロマンチックな感じが全くないのよ。仕事仕事で本当にだめなの。でも、悪い子じゃないのよ」

「優美さんのお孫さんならきっと素敵な人だと思います」

「そう?会ってからもそう思ってくれるといいんだけど」

ちなみに、今どこに向かっているんですか。窓の外の景色を見ながら未希子は尋ねた。

「フフフ。親戚がデザイナーでね、ちょうど近くにお店を持っているからそこでお買い物をしようと思って」

デザイナー?

そうそう。私、結構彼女のデザインが好きでね。何着か持っているの。未希子さんにも是非と思って。

「そんな。明日の服でしたら一応持ってきていますし、もうこれ以上本当に受け取れません!」

「明日のドレスを一緒に買いたいなって思っただけなの!」

孫娘がいないからこういうのずっと夢見ていたのよ。義娘はいるけれど、こうやって一緒に買い物も行かなくなったし。優美はしょんぼりしながら、こういうこと一緒にできる人はいないのよ。だから未希子さんとお買い物ができるってちょっと張り切っちゃっただけなの。
あまりにもがっかりとした表情の優美を見ていると、なんだか自分がとてつもなく悪いことをしてしまった気がして、強く言い返せなかった。何でも思い通りに物事を動かし、それが当たり前の生粋のお嬢様。わがままと言ってしまえばそれまでだが、そんな優美を未希子は憎めなかった。未希子は大きなため息をついて一着だけですからねと念を押すと、優美の目が途端にキラキラと輝きだした。

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