シンガポール・スリング

その日は朝から戦場のようだった。
昨夜のスパのおかげか、エネルギッシュな優美と過ごしたからか、スパ終了後ベッドにたどり着いた瞬間からの記憶がない。

朝は鞭打って体を起こし、昨日食べなかったパンとジュースを流し込んで、8時半から予約してあったホテル内の「ル・サロン・ローズ」へと向かった。到着と同時に美術館のような空間へと連れていかれ、優美と一緒にフットマッサージからマニキュア、ペディキュア、ヘッドマッサージ、その後にヘアケア・ヘアアレンジをしてもらい、昨日購入したドレスを二人で着た後にメイクアップ、気づけば12時5分前になっていた。

「なんか、気合が内側から沸き起こるような気がしない?私、素敵なドレスを着るとテンションが上がるのよ」

「・・・どちらかと言うと、私はメイクアップを終えてどっと疲れた気が」

あら、やだ。何言ってるのよ、若いのに。優美はカラカラと笑った。確かに優美は昨日より5歳ぐらい若返ったように見える。優美が選んだドレスは赤を基調にしたシルクのチーパオでひざ下まであるデザイン。気品がありながらもどことなくセクシーで女王のような風格を漂わせていた。くるりと振り返った優美は未希子の顔を愛情を持った眼差しでそっと見つめ、とってもきれいよと目を潤ませた。

「もしうちの孫が失礼なことを言っても、今日だけは許してやってね。そして、日本に帰った後も、また私にコーヒーを淹れてちょうだい」

もちろん!今日のランチが今後の私達に影響するなんてことは絶対にありません。これはこれ。優美さんは優美さんです!未希子は優美の二の腕に手を置き、にっこり笑った。

「それじゃあ、行きましょうか」

優美は未希子に微笑んで、彼女の腕を取った。




・・・・・

中華レストラン「サマーパビリオン」はリッツカールトンの3階の入り口を入った左手にある。
エントランスに近づくとすぐに「マダム・リン、お待ちしておりました」とあいさつされ、まっすぐ席へと案内された。桂林の漓江のような風景が広がる水墨画のパーテンションで奥の席が仕切られていて、プライベートの空間を作り出していた。3席用意されていたが、まだ優美の孫は来ていなかった。

あの子って本当にいつもギリギリなんだから。
不満げに鼻を鳴らすと飲み物だけ先に頼んじゃいましょ、とメニューを渡してきた。ジャスミン茶をカップに注いでもらっている間も、優美はしきりに携帯で時間やメッセージを確認していたが、諦めたのかそのうち携帯をカバンの中に入れてしまった。

「まだ、12時になったばかりですし」

“もう”12時よ。優美はカバンから小さな小瓶を取り出し、指に数滴たらしてこめかみ辺りをマッサージしながら自分を落ち着かせようと必死のようだ。その時、遅くなってすみませんという心地よい低い声と共にパーテンションの脇から背の高い男性が現れた。未希子は膝に置いていたナプキンをテーブルに置き、席を立って視線を上げた瞬間、小さな声であっと叫んだ。
男性も同時に気づいたようで、びっくりしたように動きを止めた。

「私達を待たせるなんて・・・本当に礼儀知らずね。未希子さんに謝ってちょうだい」

「・・・・・」

「レン?」

「・・・・・・」

「レン!」

「えっ・・・あ、すみません。ぼーっとしてしまって。遅れて本当にすみませんでした」

男性は大きく息を吐きだすと、レン・リンですと手を差し出した。

「河本未希子です」

未希子は軽くお辞儀をしながら、手を差し出すとその手をぎゅっと握りしめられた。

―― 温かい。

未希子は男性と改まって握手などしたことがなかったのでその大きさと温度に胸が高鳴った。レンは未希子の斜め前に座る前に、優美の背中を優しくさすって本当に申し訳ありませんでしたとすまなそうな顔をした。

「未希子さんは優しいから何も言わないけど、本当に失礼ですよ」

「わかってます。未希子さんを待たせるようなことはしないと誓いますから、ナイナイ、もう許してください」

「ぇ・・・ぃいぇ・・・私のことはお気になさらずに」

未希子はおずおずとしながら、どうしていいのかわからないというように優美を見た。

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